【講談社】
『袋小路の男』

絲山秋子著 
第30回川端康成文学賞受賞作 



 誰かを好きになったときの感情がどういうものなのか、言葉で説明するのはなかなか難しいことであるし、だからこそ多くの人が歌や小説といったものでその恋心を表現しようと苦心することになるのだが、たとえば、自分が誰かを好きになったことがわかったとして、ではそこからその意中の人との関係をどのようにしてとらえていくべきなのか、ということを考えたとき、私たちがまず思い浮かべるのは、おそらく自分の気持ちを相手に打ち明けてみる、ということだろう。

 私はその手の恋愛経験についてはけっしてくわしいわけではないが、自分の好きだという感情をそのままにしておきたいと思うのであればともかく、そこから何らかの形で進展させたい、あるいは何らかの決着をつけたいと思うのであれば、その結果はともかく、行動を起こしてみる以外にない。もし意中の相手が自分のことを好きであれば言うことなしだし、他に恋人がいるとしたら、あきらめるなり、奪い取るなりの次のアクションへと移ることができる。もし相手がとくに何も思っていなかったとしたら、これからの付き合いで相手の心を変えていくこともできるかもしれない。誰かを好きになるという感情は、人間を能動的な心情へと導いていく原動力であり、それはすばらしいものであることに間違いはないのだが、それでも私が思わずにいられないのは、誰かが好きだというその気持ちは、はたしてどうなったら満足することを覚えるのだろうか、ということである。

 人はなぜ誰かを恋せずにはいられないのか。恋は、その人をどこへ導こうというのか。恋人どうしになればいいのか、セックスすればいいのか、結婚すればいいのか、あるいは妊娠すれば(させれば)いいのか。物事にはじまりがあれば、かならず終わりがあるのが道理であるが、ひとつの恋愛が終わったときに、そこにどのような成果が残っていなければならないのか。終わったあとに何も残らなければ、その恋はまったくの無意味なのか。本書『袋小路の男』は、たしかにひとりの女性の恋を描いた物語であるが、とかく何らかの成果を求められがちな世間一般の、いわゆる「恋愛」のイメージを踏襲することではなく、むしろその女性の「好きだ」という気持ちのあり方に焦点をあてた、という意味で、まぎれもない純愛を描き出すことに成功した作品であると言っていいだろう。

 本書は表題作をふくめた三つの短編を収めた作品集であるが、そのうちの表題作である『袋小路の男』と『小田切孝の言い分』は、同じ一組の男女の関係を女の立場からと、男の立場から描いたものとなっている。時系列としては、『小田切孝の言い分』が、『袋小路の男』の後日談という形となっているが、どちらの作品にも共通して言えるのは、いずれも激しい感情の起伏やいかにもドラマチックな展開といったものは、ほとんど起こらない、ある意味で平穏な男女の関係が描かれている、ということである。

 大谷日向子は、小田切孝のことが好きである。これは、彼女の態度を見ていればすぐにわかることであるが、しかし不思議なことに、彼女自身がその感情についてはっきり小田切孝に告げる場面はどこにもなく、どころか彼女が自分の感情について――小田切孝への好きだという感情についてはっきりと認識するようなことさえ、本書の中ではほとんどない。小田切のほうも、別段彼女のことを恋人として特別あつかいするようなところもなく、かといってまったく意識することがない、というわけでもなく、なんとも曖昧な態度をとりつづけている。ふたりが最初に知り合ったのは高校生のときだったが、あるいはそのときは、一般的な「恋人」どうしとしてのつながりをもとうとしていたのかもしれない。だが、その関係も、どちらにとっても理由のはっきりしないことがあって、一度は切れてしまっている。ふたりが再会したのは、日向子が大阪の会社に就職し、友人の結婚式に出るために上京したおりのことである。そして、ふたりのつながるようでつながらない、あくまで一定の距離を置いた形の関係は、むしろここからはじまったのだとも言える。

「あなたにとって私って何なんですか」
 あなたは数秒考えて、そしてカタカナで答えた。
「ワカラナイ」

(『袋小路の男』より)

『袋小路の男』のラストで、ふたりが出会ってから十二年が経過したことになっているが、それだけの年月を積み重ねておきながら、ふたりは「指一本触れたことがない」という。それは、ひとりの男である私としては信じられないようなことであり、またそのような関係が恋人どうしのものであるかと言われれば、そんなはずはない、と答えるしかないのだが、そもそもどのような過程を経たら、晴れて「恋人」どうしとして公認されるのか、ということを考えたとき、私たちはけっきょくのところ、世間一般で言われるところの「恋愛」のイメージを重ねるしかないことに気がつくことになる。著者が描く人々の関係は、安易にそうしたイメージによって固定されてしまうようなことを拒否するようなところがあり、それゆえにユニークな人間関係が描かれていくことが多いのだが、そのことによって、これまで「恋人」「夫婦」「親子」といった言葉で片づけられてきた、本来であれば複雑なものであるはずの人と人との関係性について、既存の価値観にとらわれない、新しい角度からの再構築を試みようとしていると言うことができる。

 だが、はたしてふたりは自身と相手の関係性を「再構築」しようとしているのだろうか。もし、ふたりのあいだに何らかの関係性を定義してしまったとしたら、たしかにそこから新たな何かがはじまるかもしれない。しかし、それは同時に、いつかはやって来る終わりを受け入れることでもあるのだ。そこにそもそも関係性がなければ、何かがはじまることも、また何かが終わることもありえない。それは真の意味で人と人との関係だと言えるのかどうかはともかくとして、少なくとも本書において、それもまたひとつの人間どうしのつながりだと主張しているように私には思える。何もかもをはっきりさせなくとも、立派に成立する関係というものも、この世にはありうるのだ、と。

 本書のもうひとつの短編『アーリオ オーリオ』は、いまだ独身のままでいる男と、その姪にあたる中学三年生の女の子とが、手紙のやりとりをはじめるという話であるが、手紙という、携帯電話やメールといったリアルタイムではない通信手段を星の光のタイムラグになぞらえることで、手紙をたんに古臭いものとして切り捨てるのではなく、別の価値観を見出していくこの作品こそが、むしろ「再構築」という意味では近いものを感じる。もっとも、叔父にあたる人物と手紙のやりとりをするその関係性は、やはりどうにも名づけようのないものではあるのだが。

 小田切孝の家は、袋小路となった道の奥にある。だからこその本書のタイトル『袋小路の男』であるのだが、それは同時に、いったん袋小路に入ってしまったら、意図してそこから出て行かなければ何も変わりようがない状態、小説家としてデビューしたものの、そのことで人生が劇的に変わったわけではなく、むしろ小説家としてなかなか認められないという意味では、デビュー前とたいした違いのない小田切孝の立場を象徴するものでもある。彼にとって袋小路から出るとは、どういうことなのか。そもそも本当に袋小路から出たいと思っているのかどうか。何もかもが急激に変わっていくのがあたりまえのこの世の中で、たいした変化のない、名前のつけようのない関係性をつづけているふたりの存在に、はたして心安らぐものを感じるか、どうにも異質なものを感じるか、それは読者しだいであるが、少なくとも言えることがあるとすれば、何かが急激に変わっていくときには、その裏に本書のような、名前の付けられることのない「何か」が絶えず生まれては消えていっているのだ、ということであり、そういう意味において、本書は何よりも変化の時代をよくとらえている、ということである。(2006.01.23)

ホームへ