【文藝春秋】
『不機嫌な果実』

林真理子著 



 私が本を読むことに対して期待していることはたくさんあるが、そのなかのひとつに、自分が今持っている価値観をぶち壊してくれるような、「もうひとつの現実」というものを目の当たりにさせられる瞬間、というものがある。それはたとえば、欲深さや意地汚さといった、人間の負の感情を再認識させるために書かれた小説を読んだときや、自分とはまったく関係ない(もしくは関係ないと思いこもうとしている)場所でおこなわれている現実を知らせるために書かれた本を読んだときにやってくるものであるが、そのたびに、自分がいかにちっぽけな価値観しか持っていないか、ということを思い知らされる。それは正直、あまり気分のいいものではないが、とても大事なことだと信じている。
 だが、本書『不機嫌な果実』を読んだとき、さすがの私も上述した考えが本当に正しいのかどうか、疑問に思わざるを得なくなってしまった。女性というものが何を考え、どのような想いで恋をし、行為におよぶのかを鮮明に書き記したこの小説は、ある意味で「もうひとつの現実」というものをこれでもか、といわんばかりに痛感させてくれる。とくに、私を含めた世の中の大部分の男にとっては。

 本書の主人公である水越麻也子は、経歴も容姿も申し分ない航一の妻となって十年目になるが、いつも「自分だけが損をしている」と感じている女性である。なまじお嬢さまとして甘やかされ、容姿もバツグンにいいだけに、プライドもひと一倍高い麻也子は、「自分だけが損をしている」現状を打開する方法として、不倫というものをしてみようと決意する。身元がしっかりしていて、容姿も良く、教養もあって、なおかつ今の夫に関係がけっしてバレないような相手――独身ではなく、自分と同じ既婚の男性と。
 とここまで書いても、麻也子がいかにわがままで計算高い女性であるかがわかってもらえるのではないだろうか。もちろん、世の中のすべての女性がそうだとは言い切れないが、一昔前の少女マンガに出てくる女の子のような清純さや従順さを、今の世の中の女性に求めてもしょうがないこともまた事実だ。それにしても、大して誇れるほどの恋愛経験も持ちあわせていない私だが、ほんとうに女性というものは、それこそセックスの最中であっても、あれだけ計算高く生きているものなのだろうか。ちょっと前に付き合っていたあの子も実は……などと考えると、それだけで気が滅入ってしまう。

 で、結局麻也子がどのような運命をたどることになったかは、本書を読んで確かめてほしい、と言いたいところだけど、勘の鋭い人はタイトルを見ただけでおおよその見当をつけてしまうのではないだろうか。まあそれには目をつぶるとしても、文章のなかにときどき古臭さが混じるのはどういうわけなのだろう。「おお、嫌だと麻也子は肩をすくめる。」なんて表現、いまどきドラマの姑役の人しか使わないのではないだろうか。さらに言うなら「〜はどうだ」という言いまわし。「特に野村の中指といったらどうだ。」「そこへいくと、通彦のこの素敵さはどうだ。」「ところが麻也子ときたらどうだ。」おそらく感情の高ぶりを表現したいのだろうけど、そんなにどうだ、どうだとたたみかけられても、「どうだって言われても、そんなの知ったこっちゃねえよ」とへそ曲げるか、「どうだ? ん? いいのか? たまらんのか?」と卑猥な想像をしてしまうだけだ。

 とまあ、一時期は話題になった本なのでとりあえず読んではみたけど、なんとなく中途半端なポルノ小説を読んでいるような、欲求不満の残る小説である、と書いてしめておこう。(1998.11.09)

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