【講談社】
『本を読む本』

M.J.アドラー、C.V.ドーレン著/外山滋比古、槇未知子訳 



 インターネット上にサイトを開設し、おもに小説を中心に、読んだ本の書評を載せるようになって、本書『本を読む本』でちょうど千冊目にあたることになる。「読んだ本は意地でも褒める」という方針のもと、とにかく一度読みはじめた本は最後まで読み、読みながら付箋をつけたり手帳に書き込みをしたり、あるいはかならず一度は再読して全体を把握し、著者が伝えたいことは何なのか、なぜ著者はこの本を書いたのか、といったことを考えながら書評を書いてきたわけだが、そうした読書方法が、はたして一読書家として正しいものなのか、もしかしたら、純粋に本を楽しむためではなく、書評を書くために本を読んでいるのではないか、という疑念は常につきまとっていた。

 この書評をお読みの方々は、多かれ少なかれ読書を趣味とされていると思うのだが、皆様ははたしてどんなふうに本と接しているのだろうか。どのような方法で本を探し、数多くの本のなかからこれという一冊を選択し、どのように読むのか。面白くなくても最後まで読むのか、面白くなければ途中でやめるのか。一冊の本を読み通すのか、いくつもの本を同時並行的に読んでいくのか。読んだ後はどうするのか。幸いなことに、インターネット上で自分と同じく本好きな方々と知り合いになり、本の読み方も千差万別であることを知ることができたのだが、なかには、これはおもにビジネス書をよく読む方であるが、読書の目的をはっきりとさだめたうえで、その目的を遂げるために一冊の本を読み通すのではなく、いくつかの本を限られた時間でざっと目を通し、必要な部分だけ拾い読みをし、目的と関係なさそうであれば途中で読むのを止める、といった思い切った読書の仕方もあることを知り、本を読むための指南書みたいなものがあれば、と思っていたところに出くわしたのが、今回紹介する本書『本を読む本』である。

 良い本を読みながら眠ってしまうような人は、読む努力をしようという気がないのではなく、努力のしかたを知らないのだ。良い本は読者にとって難解である。――(中略)――そういう本に向かって読者は背伸びをし、自分をそこまで引き上げなくてはならない。

 本書はまさにそのタイトルにあるように、「読書の技術」を書いた本であり、具体的にどのようにして本と接し、読み込んでいけばいいのかを紹介した実践の書である。しばしば「積極的読書」という言葉で表現されるその読書とは、ただたんに書かれた字面を追うような読書ではなく、書かれている事柄への理解を深め、そのことに対して自分がどう思うのかを解釈するための読書を指している。ここで読書というものが、ただ書かれたものを受け取るだけの受身の行為だと思っている人がいるとしたら、まずはその認識をあらためる必要がある。そのような読書のことを、本書では「情報を得るための読書」として分類し、積極的読書、「理解を深めるための読書」とは異なるものだとしている。

 読書のレベルを四つに分け、それぞれ「初級読書」「点検読書」「分析読書」そして「シントピカル読書」と称している本書のなかで、当然後者になればなるほど読書のレベルは高くなり、より高度な技術が必要とされるのだが、ここでひとつはっきりさせなければならないのは、「分析読書」「シントピカル読書」といった高次なレベルの読書は、そうするにふさわしい「良書」にこそふさわしいものであり、そうでない大半の本については、そこまで深い読書をするに値しない、という基本理念があるという点である。そして本書の半分以上が、読書の第三レベルである「分析読書」の方法論に費やされている以上、本書は私たち読者に対して、良書をきちんと見分けることを何より要求しているのである。

 そういう意味において、手にした本が良書かそうでないかの判断をあまり重要視しない、というよりも、どんな本であってもそこに何か良いところを見つけ出そうとするような読書をしている私にとって、本書の読書技術は、私が期待していた欲求を満たすようなものではないと言える。そもそも本書が対象にしているのは、主として教養書であり、小説や文学作品の場合、あくまでその読書技術を応用できるにすぎないというレベルにとどまっている。ただ、本書が言うところの「良書」――読書の技術を磨くにふさわしい本というのは、全体の一パーセント程度しかないと明言しており、それゆえに大半の本は「点検読書」、つまり、短い時間でその本が何の本なのか、著者が何を主張しているのかを把握するための読書で充分だということを意味する。

 そう、本書はより正確に言うなら「積極的読書」のための本である。そして、そうした読書を念頭に置いていない読書、たとえば娯楽のための読書とかいったものは、このなかに含まれない。これが何を意味するかと言えば、読書というのはそれぞれいくつもの目的があるということであり、その目的をはたすのにふさわしい読書方法がそれぞれ存在する、ということである。そして、本書で紹介されている「分析読書」が、一冊の良書に対してその概略を把握し、書かれた内容を解釈し、そしてその解釈に対して自分なりの意見をもつ、という点を重視し、さらにその上のレベルである「シントピカル読書」が、あくまで読み手のほうに何かの目的、調べたい事柄があって、それを果たすために同じ主題をもつ複数の本を読み進めていく点を重視していることを考えると、本書が目指す読書とは、まさに本を使いこなすための読書ということになる。

 前述したように、本を読む目的というのは人それぞれであり、そこに本を読むという積極的な姿勢があるかぎり、間違いというわけではない。そういう意味で、本書の読書技術も、あくまで読書の一方法論にすぎないと言える。だが、読書という行為について共通する部分がまったくない、というわけではない。それは、読書が人としての誠実さを問われる行為である、という点である。

 本と対話する、という言葉があるが、基本的に読書とはひとりで行なうものだ。つまり、その気になればいくらでもズルができるということである。その本に書かれていることを自分のものにしてもいないのに、あたかもわかったふうな素振りでその本を批判することも、たんに相手を攻撃するために粗探しするような読書をすることも、「自分には合わない」と投げ出すことも、すべては読書自身の手にゆだねられている。本自身は文句を言うことはない。だが、だからこそ読書は読み手自身の姿を如実に映し出す鏡だとも言える。読書の技術を高めるということは、他ならぬ自分自身を高めることにつながっていく。そしてそれこそが、本書が読者に求めていることでもある。

 読者が積極的に本にはたらきかける、そのはたらきかけに答えてくれる良書がある。良書の数はけっして多くはないが、そうした深いレベルの読書ができるのであれば、読書家としてこれほど本望なことはないだろう。たんなる技術書としてだけではなく、本を読むという行為の理念を再認識するという意味でも、ぜひ多くの読書家の目に触れてほしい一冊でもある。(2008.05.14)

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