【早川書房】
『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』

チャールズ・ユウ著/円城塔訳 



 たとえば、私たちの生きるこの世界が、じつはある小説の背景世界だったとしたら、と想像してみる。私たちはある物語の登場人物であり、結末はすでに書かれているが、物語内世界にいる私たちには、自分たちのたどるべき運命はわからない。当然のことながら、自分の人生が誰かによって書かれた物語の一部であることなど、認識する術もない。そして、ここが肝心なところだが、もし私たちが、その世界を一冊の小説のごとくとらえることのできる視点を得たとしたら、その視点を何らかの方法でズラしていくことは、物語内の時間を跳び越えることと同義となる。

 物語内の時間は、「物語の始まり」から「物語の終わり」まで連続したものであり、それは基本的に「過去」から「未来」へ一方的に流れていくものである。むろん、なかには時間の流れが過去に飛んだり現代に戻ったりし、一定でない場合もあるのだが、それをそんなふうに感じているのは、あくまでその物語を小説のように外側から読んでいるからであって、物語内の登場人物には、物語全体の時間構造などわからない。私たちがこの現実世界において、ときどき過去を思い出したりはするが、時間は過去から未来へと一定に流れていき、不可逆なものであるのと同じように、物語内世界を生きる人たちも感じているはずだ。

 小説を再生機能しか付いていない朗読機にかけるような時間認識でしかとらえられないのが現実世界の私たちであるとするなら、スキップ機能や逆送り機能のような性能のついた朗読機があれば、それは私たちにとって、まるで時間跳躍であるかのように感じられるはずである。つまりその朗読機は、タイムマシンということになる。タイムトラベルというSF要素を扱った小説は数あれど、今回紹介する本書『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』のような技術的原理――あるいはメタ的視点を取り入れた作品はなかなかに珍しいものがある。

 SF的な空間の中で、記憶と想定は、それらを共に持ち出すならば、タイムマシンを製造する必要にして十分な要素である。すなわち、原理的には万能タイムマシンを構成するにはこれしか要らない。

 本書を評するうえでまずその足場固めをしておくならば、本書の世界においては「継時上物語学」という時間の物理学が確立されている。言い換えるなら、私たちの世界が「本に書かれた世界」であり、そこに書かれた世界と、その世界を構成している文章を操作する技術を、他ならぬ本に書かれた登場人物たちが手に入れた、ということである。そういう意味で、本書はSF的というよりは、メタ的な立ち位置にある。だが、メタはメタではあるのだが、あくまで登場人物たちは物語の中にいる、という前提だ。本書には「継時上物語学」をはじめ、「応用時間言語学」「文法ドライブ」「パラドックス中和用試作兵器」といった単語がちりばめられており、あたかもメタ的視点が科学技術によって確立されたかのような世界が展開されている。

 さて、本書に登場するのはチャールズ・ユウという名の語り手であり、彼はこの世界においては作家ではなく、タイムマシンの修理とサポートの仕事をしている。タイムマシンが個人の娯楽として普及している世界で、呼び出しがあれば彼は個人用のタイムマシンに乗って、トラブル対応に努めるわけだが、それ以外の大半を、彼はそのタイムマシンのなかで、どこの時間軸にも属さない(本書では「無時制のまま生きている」と表現されている)で過ごしている。つまり彼は、ほとんどの時間を他人との時間から切り離された世界で生きており、時間的な引きこもり状態にあると言っていい。そしてこの彼の設定は、後に本書の重要なテーマに絡んでくることにもなるのだが、とりあえず彼の身に起こることを書くと、メンテナンスに出していたタイムマシンを取りに修理工場に向かった彼は、そこでまさにタイムマシンから降りようとしている自分自身と出会い、とっさにその「もうひとりの自分」を撃ってしまったあげく、彼の乗っていたタイムマシンに乗り込んでどことも知れぬ時制へと発進してしまう。

 こうして彼は、未来のある時点で自分自身に撃たれては、タイムマシンに乗り込んでまたそこから降りてこなければならないという無限ループにはまりこんでしまうことになる。はたして彼は、どのようにしてこの陥穽から脱出するのか、というのが物語としての本書のあらすじということになるのだが、重要なのは時間跳躍としての要素ではなく、むしろ語り手である「僕」がとらわれているある「過去」をどのようにして乗り越えるか、という、ひとりの人間としての成長を描こうとしている点だと言える。そしてそこには、かつてタイムマシンの開発を独自におこなっていた父親との確執という「過去」がある。

 彼はタイムマシンを哀しみをどうにかするために使おうとした。彼自身の、彼の父親の、そのまた父たちの哀しみの源を調べ尽くすために。究極の起源にまで遡り、自らの生み出したきつい曲率に囚われて残りの宇宙から切り離されてしまっている、黒く輝く物体にまで遡ることによって。

 上述の引用にある「彼」とは、語り手の父親のことを指している。そして父親は、タイムマシンを独自に開発していた構造エンジニアでもあった。だが、過去のある時点における「事件」のせいで、結果として家族の前から姿を消した。語り手が十年近くも「時間的引きこもり」状態にあるのも、母親が意図的なタイムループの小世界で生きているのも、じつはその「過去」が要因になっているところがあるのだが、この失踪した父親を探すというベクトルが、本書のメインと言ってもいい。だが、父親はタイムマシン原理を見いだした人物であり、またそれゆえに彼の失踪は時間横断的なものでもあり、通常の方法ではまず見つけ出すことなど叶わない。そこでタイムループという、イレギュラーな出来事が関係してくることになる。

 この繰り返される時間という概念は、ある意味で「過去」に囚われることの象徴としても機能している。ことあるごとにその「過去」を思い出す、というのは、過去への時間跳躍でもあり、本書の世界ではそれが実質的に可能なのだ。だが、しばしば語り手が言及するように、過去は変えられない。下手に変えようとすると、その当人が今回のようなパラドックスにはまり込んでしまう。それゆえに、語り手のような仕事が発生することになるのだが、もし人生において最悪の体験となった「過去」をどうにかしたいのであれば、タイムマシンによる改ざんに頼るのではなく、その「過去」をなんとかして受け入れ、前に進んでいく以外にない。本書において語り手が辿ることになる、通常の時制から外れた宇宙での奇妙な出来事は、言ってみればそうした「気づき」に到達できるかどうか、ということでもある。

 ただでさえとっつきにくいSF的設定であるうえに、訳者がとかく難解な作風を持ち味とする円城塔であるということもあり、けっして万人にお勧めできる本とは言えないところがあるものの、逆に円城塔が訳者だからこそ本書の翻訳が成し遂げられたという思いもある。はたしてあなたは本書の奇妙なタイトルに、どのような意味を見いだすことになるのだろうか。(2014.07.24)

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