【岩波書店】
『君たちはどう生きるか』

吉野源三郎著 



 私はここ二年ほど、おもにシステム的な面で新会社を立ち上げるプロジェクトにかかわるという機会を得たのだが、当然のことながら初めてのことばかりのなかで、いくつものトライアンドエラーを繰り返すことでようやく軌道にのりかかってきた、という段階にまでもっていくという体験を通じ、ひとつ興味深く感じたことがある。それは、ルールがどのようにして発生し、既定のものとして定着していくか、という過程である。

 会社の業務をまわしていくさいに、決定しなければならないこと、守らなければならないことというのはいくつもあるのだが、あるルールが発生するのは大抵の場合、それが破られることで会社の業務に大きな支障が生じるからだ。私はそのときの「大きな支障」について、身をもって体験し苦労しているし、だからこそそこに発生したルールについて、なぜそれを守る必要があるのかも理解しているのだが、それでも時間の経過は、そのルールが生まれることになったそもそもの要因について、しばしば私の頭からその記憶を奪ってしまうことがある。ふとしたときに、業務のあるルールについて、「なぜ守らなければならないのか」と自問し、過去にどんな経緯があったのかを同僚に訊いたり資料を調べたりして、ようやく「そういえばそうだった」と納得することが、最近になって何度かあったことを覚えている。

 たった二年という期間でさえ、実体験を経ているはずの人間の記憶を曖昧にする。ましてやこの会社がこの先何年もつづいていき、創立時のメンバーが一新されていけば、そこには守るべきルールがあるだけという状態になる。なぜそのルールがあるのかはわからない。だがルールを守っていれば、少なくとも業務はうまくまわっていく――それはそれでたいしたことなのかもしれないが、ここで本当に大切なことは、なぜそのルールがあるのかという疑問を追究していこうとする姿勢ではないだろうか。今回紹介する本書『君たちはどう生きるか』を読んだときに、ふと思ったのはそんなことである。

 だからねえ、コペル君、あたりまえのことというのが曲者なんだよ。わかりきったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えていくと、もうわかりきったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね。

 本書は1935年から37年にかけて刊行された、全十六巻からなる「日本少国民文庫」のうちの一巻であり、次の時代を担う日本の少年少女の教育という明確な目的をもって編纂されたものである。たとえは少し古くなるが、かつて学習研究社が刊行していた子ども向けの学習雑誌「学習と科学」と、方向性としては似たようなところがあると言ってもいいものであるが、そのなかでも「倫理」という難しいテーマについて取り扱ったのが本書『君たちはどう生きるか』である。

 倫理や道徳の教育というと、私がよく覚えているのは、ある命題に対する模範解答があらかじめ用意されているという教科書的なものだ。約束は守らなければならない、嘘をついてはいけない、弱いものいじめはいけないことだ――それはあたり前といえばあまりにあたり前のことではあるのだが、ただ模範解答を暗記するだけでは、真に倫理を身につけたと言うことはできない。本当に重要なのは、そこからさらに一歩踏み込んで、なぜそうしなければならないのかという疑問をもたせること、倫理や道徳を考えさせるシーンを他ならぬ自分自身のことに置き換えたときに、自分が何を思い、どう行動していくのかを深慮するということだと最近になって思うようになっている。

 学校で勉強ができること、良い成績をおさめることは、学生の本分として重要なことではあるが、こと倫理や道徳という観念において、そうした教科書的な学習はなんら意味をもたない。人としてどのようにあるべきなのかという命題には、算数や理科のようなひとつの模範解答があるわけではなく、自分自身で考え、見つけ出さなくてはならないものだ。そしてその第一歩として肝心なのが、「何かに疑問をもつ」という姿勢なのだが、本書はその根源的な部分――何かに疑問をもつとはどういうことなのか、ということについて、いかにわかりやすく説明していこうかという方向性が見受けられる。

 中学二年生の本田潤一を主人公に、彼がふと考えたり体験したことに対して、彼の叔父が未来の彼のために、そのことの意味や重要性をノートに書き込んで整理するという形で進んでいくという点では、ケストナーの『点子ちゃんとアントン』で踏襲された形式を髣髴とさせるものがあるが、その冒頭、主人公の少年が「コペル君」というあだ名で呼ばれるようになる経緯について書かれた部分では、コペルニクスが発見した天文学の地動説をベースとして、自分という存在を客観視する相対主義の必要性を説くという、難易度の高い命題に挑戦している。自分を客観視するという視点は、他ならぬ自分自身の存在に疑問をもつためには必要不可欠なものであり、そうした視点を忘れ、自分が正しいという考えに凝り固まった人間を、物事の真実を見抜けない天動説支持者として見立てることで、その重要性がわかりやすく説明されている。そうしたラディカルな視点が、本書の大きな特長となっている。

 しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類は宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。

 本書を読み進めていくと気がつくことであるが、倫理や道徳の原点として、人類の歴史における偉大な発見や発明といったものと結びつけようとする傾向がある。これは当然「日本少国民文庫」の趣旨でもあるのだろうが、私たち人類がこれまで歩んできた、けっして正しいとばかりは言えない歴史のなかから、それでも人類の進歩に大きく貢献した事柄を正しく評価し、そこから学んでさらに大きく飛躍していってほしいという願いが込められているからこそだと言うことができる。そして、だからこそ本書に示されている「君たちはどう生きるか」という命題の、その志の高さに感銘を覚えずにはいられないのだが、本書が真に秀逸なのは、人間の高潔さばかりでなく、その弱さや脆さについても語っており、その弱さが何を意味するのかについても、きちんと言明しているという点である。

 物語の後半で、コペル君は友だちと交わしたはずのある約束を守れなかったという体験をする。それは、果たそうと思えば果たせたはずのことだったにもかかわらず、自身の勇気のなさゆえに、心ならずも友だちを裏切るような結果となってしまう。彼はそのことで体調を崩すほど後悔することになるのだが、それは同時に、彼の深い後悔の念、道義に反することしてしまったという思いを、ごまかすことなく受け入れる姿勢を崩さなかったことを意味してもいる。世のなかには、とりかえしのつかないことをしでかしておきながら、自分に都合の良い言い訳ばかりを考えて誤魔化してしまう人間が、いい齢をした大人のなかにも大勢いるが、それが人間として間違った行為であると本書は説く。
 なぜなら、心の痛みや不幸、後悔の念といったものは、肉体の痛みが病気や怪我といった異常を知らせる信号であるのと同様、人間の本来あるべき姿から遠ざかっているからこそ生じるものだからである。そしてその姿勢もまた、何かに対して疑問をもつこと――心の痛みが何を意味するものなのかについて、目をそらさずに思索するということへとつながっていく。

 私自身もそうだったが、これまでの人生においていくつもの失敗をし、また多くの後悔を繰り返してきた。そのたびに自分が嫌になったり、もっと揺るぎない自分自身がほしいと願ったりもしてきたが、もし本書にもう少し早く出会うことができていたら、あるいは転ぶにしても、もっとうまく転ぶことができたのかもしれない、と思わずにはいられない。人間は弱い。だが同時に、人間は強い。その本当の意味について、本書ほど雄弁に答えてくれるものはない。(2012.07.11)

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