【集英社】
『ハウス』

谷村志穂著 



 人前で誰はばかることなく泣くことができる者で、少なくとも私がよく知っている人と言えば、まだ小さな子どもだけである。人は歳を重ねるごとに、人前で涙を流したりするようなことがなくなっていく。いや、泣くことに限らず、笑ったり怒ったりといったストレートな感情を爆発させるようなことは、子どもの頃と比べてずっと少なくなってくる。それが一人前の人間として―― 一時の感情に流されることなく、理性的に物事に対応していく大人としての成長を意味するということを否定はしない。だが、人はいったい、理性的でありつづけることなどできるものだろうか。

 理性と感情、このふたつの相反する要素のバランスによって、ときに理性的であり、ときに感情的でもある複雑な心をその内に抱えこんでしまった私たち人間は、必然的にそのふたつをうまく飼いならしていくことを義務づけられた生き物だと言うこともできよう。だが、人は誰もが器用に自分の気持ちを切り替えられるわけではない。理性と感情のあいだを常に揺れ動きつづける人間の心――私が物語という虚構のなかに、たしかなドラマ性を感じることがあるとすれば、まさにそうした心の作用に悩み苦しむ人間と触れ合うことができたときだ。

 本書『ハウス』のなかに登場する女たちは、よく泣く。それもひとりきりのときではなく、誰かがそばにいるときにかぎって涙を見せる。それは逆に言えば、彼女たちが少なくとも「泣く」という、自分の感情に対して素直になれる場所をたしかにもっている、ということでもある。そういう意味で本書は、自分の本当の居場所、自分が正直な自分自身を前面に出すことのできる場所を探しつづける人たちの物語だと言うことができるだろう。

 ここが、この場所こそが、私の場所なのだと。家族でも家でもなく、ただ唯一の居場所なのだと思えた。

 自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であるということ――自分のアイデンティティを確立する、あるいは再認識する、という視点で書かれた物語は数多いが、本書に関しては、短編集ということもあってか、個々の登場人物よりも、むしろ彼女らが見出すことになる「自分の居場所」のほうに重心が置かれていると言える。それはたとえば駅前広場の銅像の前であったり、パソコン通信のチャットルームであったり、多摩川の河川敷の土手であったり、あるいは幼稚園で自分が受け持つ教室であったりするのだが、そこはけっして自分ひとりだけの場所ではなく、必ず誰かしらが存在している場所でもある。つまり、彼女らが探し求めている「居場所」とは、ある特定の空間としての場ではなく、むしろ「誰かのそば」という、自分以外の誰かがいてはじめて成立する場であり、それはけっきょくのところ、人と人との関係に集約される事柄でもある。

 本書に登場する人たちは、けっして人付き合いが良いほうではない。むしろ、社会においてごくあたり前のことだと思われている人間関係――建て前と本音をうまく使いわけ、誰かと大きく対立したりすることなく、スムーズに物事をこなしていく人間関係というものに戸惑い、悩みを抱えこんでいる場合がほとんどだ。言ってみれば、彼らは世の中をうまく渡っていくにはあまりにも不器用な人たちであるのだが、だからこそいかにも人間臭く、親しみの持てる人たちでもあるのはたしかだ。

 あるときは絶望の中で、それでも自分の新しい居場所を見つけ出したり、あるときはかつて自分が見つけた居場所を、あらためて自分の居場所なのだと再確認したり、あるときはその場所を捨て、あたらな居場所へと移っていったり、あるいは一度は捨てたはずの居場所に戻ってきたり――自分の居場所をめぐって人間ドラマを繰り広げていく登場人物たちに共通しているのは、彼らが父親あるいは母親となる形の「家庭」を築くことをもって自分の居場所とする者が、ひとりもいないということである。誰かに恋をしてその人と結婚し、やがては生まれてくるであろう子どもたちと幸せな家庭を築いていくという、おそらく私たちの大半が歩んでいくであろう道について、少なくとも著者はすでに崩壊してしまった神話か何かのように考えているように思える。
 それはたとえば「ミニの日曜日」の香菜の家庭がすでにバラバラであったり、「煙突の町」の純子が母親のいる家庭に息苦しさを感じてふと飛び出してしまったり、といった形でも見られることだが、何より象徴的なのは、「年上の女」のなかで昌彦が、子どもの生めない体になってしまった美由紀に結婚を申し込むものの、美由紀自身によって断られてしまうというシチュエーションであろう。本書のなかにある12の物語のうち、男性が主人公の作品はふたつだけであるが、そのいずれもが「自分の居場所」の発見というよりも、その居場所をなくしてしまうという結果になっている。だが、もし著者が指し示そうとしている「自分の居場所」というものが、社会や組織によって与えられるさまざまな肩書きとしての自分ではなく、そうしたものをすべて取り払ったあとに残るはずの、まぎれもない自分というものへと立ち戻ることを意味しているのだとするなら、女性よりも社会的地位というものにあぐらをかきがちであり、それゆえにともすると、自分自身を見失ってしまいがちな世の男性にとって、自分の居場所を見つけるというのは、けっして何らかの社会的な肩書きをもつことであってはならない、ということになる。

 自分の居場所というのは、必ず「家庭」という形の中でなければならないのか――千差万別であるはずの人間の性格を、たったひとつの形に押し込めることが、じつは非常に乱暴なことなのではないか、という疑問から、本書は生まれたのだと私は思う。他人にとってはどうでもいいような、ちっぽけな場所にこそ「自分の居場所」を見出す人たちの物語は、じつはある物語で主人公と何らかの関係をもつ脇役として登場した人が、べつの物語では主人公となっていく、という形でゆるやかなつながりをもっているのだが、そうした本書の設定もまた、人と人との関係のありかたのひとつとしてとらえることができるのではないだろうか。人間関係というのは、けっして「家族」や「恋人」といった、ありふれた単語で説明できるものばかりではないのだ、と。(2003.06.17)

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