【早川書房】
『地球の長い午後』

ブライアン・W・オールディス著/伊藤典夫訳 



 たとえば、宇宙空間で人間が暮らしていくことになったとき、それはどんなふうになるのだろうかと想像してみる。宇宙空間には空気がないし、重力もない。空気がないということは、音も伝わらないし、重力がなければ摩擦も生じない。強い放射線に常にさらされている、絶対零度の世界――それは、地球という恵まれた世界で生きている私たちにとっては、相当に過酷な環境だと言うことができる。それゆえに、宇宙空間で生きることになれば、そこはきっと私たちにとってのあたり前など何ひとつ通用しない、驚異的な環境となることだろう。それこそ呼吸をすることや、水を飲むことといったことさえ、あたり前ではない方法をとることになるはずである。

 SFにしろファンタジーにしろ、別世界であるがゆえの驚異を与えてくれる小説は、それだけで大きな刺激であり、また大きな魅力を内包している。そういう意味で、今回紹介する本書『地球の長い午後』は、このうえなく大きな驚異に満ちた作品である。なにせ本書の舞台は、今よりもはるかな未来――それこそ何十億年といった、気の遠くなるような時間を経て、太陽がその寿命によって膨張しつつあるような世界なのだ。

 人間が住むこの大陸は、いまでは一本のベンガルボダイジュに支配されていた。はじめ森の王者だったそれは、やがて森そのものとなった。砂漠も、山脈も、沼沢も、その敵ではなかった。その入り組んだ足場は、大陸をおおい尽くした。

 重力変動によって地球の自転が停止し、永遠の昼と永遠の夜とに二分割された世界――太陽の膨張による気温の上昇とともに、植物が圧倒的な主権を確立した世界で、人類はかつての万物の霊長としての栄光の一切を失い、自然に従属して細々と生きるしか術をもたない絶滅寸前の獣と化していた。大陸のほとんどを埋め尽くす超巨大なベンガルボダイジュは、他の植物に熾烈な生存競争を課し、結果として、その多くが食虫植物のような機能をもつにいたった緑の世界で、人間は植物に捕食される立場なのだ。じっさい、本書には何人かの名前を与えられた人間が登場するが、ベンガルボダイジュを生活の場とし、少数のグループを形成して生きる彼らの大半が、物語のなかであっけなく死に、また残された者たちもその事実を「なるようになった」としか考えない。それは、人間がきわめて原始的なものの考え方しかできない生き物にまで退化してしまっているということであり、それだけ彼らの生きる世界が過酷で危険なものだということでもある。

 とにかく想像を絶する世界観である。あらゆる植物がかつての恐竜のごとく巨大化、凶暴化し、対して人間は圧倒的に小さくなっているという世界のため、その縮尺を今の私たちの常識で推し量ると混乱が増すばかりである。そしてその混乱は、同時に本書の世界が、私たちのもつ規定の価値観を根底から揺るがすものとして作用していることを意味する。トラバサミのような構造で獲物を捕らえるヒカゲノワナ、ガラスのような莢で太陽光線を集めて攻撃するヒツボ、鳥のような姿をして、じっさいに空を飛ぶこともできる植物のツチクイドリ、まるで檻のように上から獲物を閉じ込めるジゴクヤナギや、倒木に擬態して獲物が入ってくるのを待つナマケニレなど、じつに多くの奇怪な植物たちが出てくるが、これらの植物がいずれも人間を捕食対象としていることそのものが、本書の世界観を驚異に満ちたものとしている。

 なかでも印象的なのが、ツナワタリとアミガサダケの二種だ。ツナワタリは超巨大なクモの姿をした植物で、なんと地球と月とのあいだに糸を張り、宇宙空間を行き来することが可能になった生き物である。森に生きる人間たちは、ある程度の齢を重ねると、ヒツボの莢を「棺」として中に入り、ツナワタリの体に取りついて別世界である月へと旅立っていく風習があるのだが、放射性さえも栄養素として生長していくツナワタリの存在は、人間が今もなお成し遂げていない宇宙への進出――たんに宇宙に出るというだけでなく、生活の場として地球以外の場を築いたという意味で、重要な位置を占めている。

 もうひとつのアミガサダケは、かつての人間のように知能を発達させた生き物で、他の動植物に寄生し、宿主の代わりの脳としてさまざまな知識や推論をさずけるというやり方で生き残りをはかってきた。これは本書において主要な登場人物の人間のひとりであるグレンにとりつくことで、彼をこの驚異に満ちた世界の案内人として旅をさせるという役割をはたすことになるのだが、こうした本書の特長を見るにつけ、私たち人類のはるかな未来の姿として書かれた「人間」が、今の私たちがあたり前のものとして受け入れている人間の姿といかにかけ離れた存在であるのかがわかってくる。

 太陽の膨張は、恒星の末期の姿であり、それはそのまま地球をふくむ太陽系の終焉でもある。ということは、知性の点で退化した人間はもちろんのこと、現状では栄華を誇っている植物たちも、待っているのは滅びへの道だ。人間が死んだとき、その先に何があるのか、というのは人間の永遠の謎のひとつであるが、それを地球規模で想像した結果として生み出されたのが本書だと言える。そういう意味で、本書は地球そのものが主役の壮大な物語である。植物が動物のように動き回り、キノコが人間のように思索する――まるで、動物や植物といった分類が取り払われてしまったかのような、巨大な温室と化した地球は、はたして読者をどこへ導こうとしているのか、ぜひとも確かめてもらいたい。(2011.11.17)

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