【毎日新聞社】
『古道具ほんなら堂』

楠章子著 



 ここ最近、店の中で人目もはばからず、大声で店員を怒鳴りつける客というのを何度か見かけたことがある。個人的に大声を出すことも出されることも大嫌いな私にとって、そうした場面に遭遇することは、それだけで神経をすり減らすような思いをさせられることになるのだが、同時に、大声で怒鳴りさえすれば、たとえ相手側に非がなかったとしてもこちらの言い分が通るに違いない、あるいは、自分は客なのだから、店員は自分にけっして反抗することはあるまい、というなんとも浅はかな思考がにじみ出ているようで、その頭の悪さに心底うんざりさせられる、というのが正直なところだったりする。

 自分は「客」という不特定多数のひとりである、という心理は、あるいはその人にふだんは思いもしない大胆な言動をさせるものなのかもしれない、とふと思う。集団心理はそこに個人としての責任がかぎりなく希薄になるからこそ起こる現象であるが、であるのなら、客と店員という関係には、およそ人間としてのつながりなど存在しないと言えるのかもしれない。今の日本において、たいていの物はお金があれば手に入れることができる。だが、お店に行って商品を選び、店員を介して物を買うことと、自動販売機で物を買うこととのあいだには、けっして埋めることのできない差があるはずだ。だから、クレーマーと遭遇するたびに、私はこんなふうに思うのだ。もしあなたが今怒鳴り散らしているその店員が、あなたの名前や住所といった個人情報を知っていたとしたら、はたしてそんなふうに大声をあげることができるのか、と。

「うちとあんたもはじめてあう。はじめてのもんには、まずなまえをなのりなはれ」

 本書『古道具ほんなら堂』に登場する古道具屋「ほんなら堂」、その店主である大原橙花は、はじめて店に訪れる客に対して、かならず名を名乗るようにうながす。小さな丸眼鏡、だいだい色の着物、おかっぱにした白髪という特徴的ないでたちをしたこの小柄な老婆の顔はいつも気難しそうで、少なくとも相手をお客様とみなす商売人としての態度ではないし、はなから商売で大もうけしようといった俗世的な考えを超越しているような雰囲気さえあるのだが、はじめて「ほんなら堂」を訪れた相手に対して名前を聞き、そのあとに自分も名乗るという行為が、相手を客としてではなく、ひとりの対等な人間としてあつかいたいという彼女の強い意思によるものであると考えると、しっくりくるものがある。そしてそれは、相手が幼い子どもであったとしても、変わることがない。

 本書は全部で四つのお話が収められており、そのいずれにおいても、ちょっとした悩みや問題をかかえこんだ少女たちが、最終的に「ほんなら堂」を訪れ、その解決方法を橙花にもちかける、という展開になる。彼女たちのかかえる問題は、たとえば『まめだのせっけん』のように、今はもう手に入らなくなってしまった石鹸がほしい、といった現実的なものもあれば、『ガラスビンのしずく』のように、妖怪変化のたぐいに妙な因縁をつけられてしまった、といったファンタジックなものもあるのだが、いずれのケースにしろ、彼女たちが「ほんなら堂」に持ち込んでくる問題というのは、じつのところきわめて表面的なものでしかなく、その奥にはより根本的な問題がわだかまっている場合がほとんどだ。

 『まめだのせっけん』のなかで、優子がその石鹸を探しているのは、それがボケのはじまっている祖母の唯一お気に入りの石鹸であるからであるし、『ガラスビンのしずく』のなかで、明美がこの世ならざるものとの因縁をつけられてしまったのは、母の死と、その後の父とのぎくしゃくした関係に端を発している。もし「ほんなら堂」が普通の古道具屋であり、橙花が商売人でしかないとするなら、彼女にできるのはたんに商品を売る、ということだけである。探している石鹸を売り、妖怪の姿を見えなくする薬を売る――だが、そこにあるのはあくまで客と店主という関係でしかなく、少女たちのかかえる問題の、その表層の部分しか解決できないことになる。そこからさらに一歩踏み込んでいくためには、店主は店主であるだけでは駄目だし、客もたんに客というだけでは駄目なのだ。

 そんなふうに考えると、橙花と客がお互いに名前をつげるというのは、ひとりの人間としての橙花のやさしさであり、また一種の儀式だと言うこともできる。そして、そんなふうにお互いを認識することで、橙花もまた商売人としてだけではなく、人間として少女たちのかかえる問題の根本的な解決のために動くことができるようになる。

 たしかに、「ほんなら堂」にはなかなか不思議な道具がそろっている。機械仕掛けとは思えないリアルな動きをするからくり時計の小鳥をはじめ、まさに魔法の道具としか言いようのないものがいろいろ出てくるし、付き合いのある者たちも、どうも普通の人間というわけではなさそうな雰囲気をもつ者ばかりなのだが、本書において重要なのは、そうした魅力的な道具や、いかにも不思議さをかもし出す「ほんなら堂」という店舗や店主といった要素ではない。むしろ、それらは少女たちのかかえる問題に対して、その第一歩を踏み出すための、いわばきっかけを与えるに過ぎないものなのだ。だが、その一歩を踏み出すことができるかどうかの差は、大きい。

 本書は迷える少女たちに、「ほんなら堂」がその解決のためにほんのちょっと手を貸すという物語であるが、じつは四つの話のうち、ひとつだけそれとは違ったパターンの物語が混じっている。そしてその物語は、本書の「プロローグ」および「エピローグ」にもつながっており、さらには橙花自身の過去にも密接なつながりをもつものであることが暗示されている。ふだんは気難しげな顔ばかりしている橙花が、その表情を崩す瞬間――そこには、橙花にも迷える少女たち同様、幼い子どもだった時代があったのだということを私たちに教えてくれる。そしてそのとき、彼女の口癖でもある「ほんなら」という言葉のなかに、彼女独自のやさしさを見出すことになるに違いない。(2008.08.28)

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