【小学館】
『骨ん中』

荒木源著 



 この世の中に、私の知らない「真実」は、それこそ星の数ほどあるのだろうが、その「真実」の何もかもを知っているのがいいのかと言えば、必ずしもそうとは限らない。なぜなら、「真実」とは常にシンプルで美しいものばかりではなく、むしろ複雑怪奇で醜いものである場合が圧倒的に多いからだ。そして「真実」というものは、それがまぎれもない真実であるがゆえに、それを知ってしまった人の心に浸透し、何らかの化学変化を引き起こさずにはいられないものがある。

 真実とはときに残酷なものだという言い回しがある。それは真実を知ったところで何も変えられない、どうすることもできない真実というものがたしかにあることを如実に物語る表現でもある。もちろん、真実を明らかにすることによって、現状を変化させるための原動力となる場合もあるが、私たちひとりひとりはあまりにちっぽけで、非力な存在でしかない。それでいて、真実を知ってしまった人の心を、もはやそれを知らなかった頃に戻すことはけっして叶わないのだ。逆に言えば、それこそが「真実」のもつ重みということにもなる。

 私たちがこの世を生きるということは、いくつもの「真実」と向き合い、それを背負って生きていくということでもある。生きて年齢を重ねていく以上、私たちは何も知らない無邪気なままではけっしていられない。今回紹介する本書『骨ん中』を貫くひとつのテーマがあるとすれば、それは複雑怪奇で醜い「真実」との闘い、ということになる。

「いいか、人々の信じているものが真実なのだ。過去にあったことではない。現在から見て、あるいは未来にとって、かくあらねばならなかったという点がより重要なのだ。こう言ってもいい。より多くの者に幸せをもたらすものが真実なのだと」

 岩館市に本社を置く中堅ゼネコン会社「川戸建設」が、百五十億もの負債をかかえて倒産したという事実は、たんに地域経済におよぼす影響以上のことを意味していた。当時会長職として、実質的に会社のトップに君臨していた川戸英太郎は、同時に「岩館のドン」と呼ばれ、経済だけでなく政治や行政をも牛耳るだけの発言力を有する人物でもあったが、いっぽうで会社経営については堅実路線を貫き、世間がバブルで浮かれていた時期も本業一本を公言しており、誰もが「川戸建設だけは安泰」と信じて疑わなかった。それだけに、川戸建設の倒産、それも、川戸英太郎が暴力団系企業に独断で巨額の債務保証をしていたという、およそ経営者としてあるまじき行為ゆえの倒産はさまざまな波紋を呼ぶことになった……。

 地元の暴力団との後ろ暗い関係を断つことができず、結果として会社に大きな損失をもたらした川戸英太郎の行為を商法の特別背任として刑事告発することを決めた「川戸建設」や、これを機に彼と結びついていた暴力団の摘発や国会議員の汚職にまで切り込もうと息巻いている地方の県警、さらには過去に握りつぶされる形となった、彼の政治資金規正法違反のネタを取り上げようと動き出したマスコミなどの目に映る川戸英太郎は、過去の時代の象徴であると同時に、ひとつの「巨悪」であるというものだ。たんなる一土建屋にとどまらない、それこそ岩館市長の首を指一本ですげ替えることさえ可能な権力を有していた彼の転落は、それゆえに彼をとことんまで追い落とそうというひとつの力の流れを感じさせるものがあるのだが、そのいっぽうで、川戸英太郎の身内や彼のことをよく知る者たちにとっての彼は、あくまで自分の会社や生まれ故郷である岩館市のことを第一に考え、その発展のために私心なく尽力してきた人物として、畏敬の念をもって慕われていた。そして、川戸英太郎自身が著した本には、彼の行動の指針となっていたと思われる父英吉の、その波乱に満ちた生涯が書かれていた。

 本書を読みすすめていくとわかってくることであるが、世間一般の目に映っているであろう川戸英太郎像と、じっさいの川戸英太郎像とのあいだには、妙なズレが生じている。そもそも暴力団への債務保証という事実自体、彼の人物像にはそぐわない、なんともお粗末な出来事であるのだが、それ以上に妙なのは、彼が一連の不祥事について、いっさいの言い逃れをすることなく容疑を認めているだけでなく、見ようによってはそのすべての責任を自分ひとりで背負おうとしているようにさえ思えるその態度である。それは、これを機に彼に連なる関係者への追及へとつなげていきたい警察やマスコミとしてはいささか不満の残る結果でもあるわけだが、そうした彼らの思いとは裏腹に、私たち読者の目に映る川戸英太郎は、たしかに犯罪に近いことに手を染めていたかもしれないが、そうした清濁を飲み込んでなお、高潔で常に人のために尽くそうと努めてきた父親を理想として生きること自らに課した男の、いかにも男らしい姿なのだ。

 はたしてこの一連の事件の裏には、どのような「真実」が隠されているのか、という疑問は、川戸英太郎のひととなり、さらには彼の過去を知るにつれてますます大きなものになっていくのだが、本書を語るうえで大きなキーポイントとなるのは、英太郎が著した本のなかでのみ登場する彼の父親、英吉と、彼自身との対比である。「川戸建設」の前身となる「川戸組」――いわゆるやくざの組長でありながら、人情に厚く、何より義侠心に溢れる英吉の姿は、あまりにも非の打ちどころのない立派な人物として書かれている。そして英太郎もまた、不幸な事故によって父と兄を同時に失い、「川戸建設」を引き継ぐことを決意してからは、その父に習って自身を律してきたところがある。

 だが、他ならぬ身内によって書かれた英吉という人物は、本当にそこに書かれたとおりの人物であったのだろうか。

「真実とおっしゃいましたな。それは残酷なものです。時に、最も愛するものを、触るのもおぞましい腐ったむくろに変えてしまう。私はどうあっても愛するものを守りたかったのです。父がそうしてくれたように。――」

 本書はたしかに川戸英太郎の物語であり、またその一族の転落の物語でもあるのだが、じつのところ彼ら以外にも、今回の事件に関係する者たちが何人も登場し、それぞれの主観をもって事件とかかわっていくことになる。それゆえに、物語全体の視点がうまく定まりにくい部分もあるのだが、「真実」との闘いがあくまで本書のテーマであることを考えたとき、英太郎にかぎらず、多くの主要な登場人物たちが、それぞれにとっての「真実」を追い求め、また「真実」によって翻弄されていくさまを見てとることができる。そして、本書を最後まで読み終えたとき、私たちはあらためて「真実」とは何なのか――「真実」を知るということ、「真実」を知ってなお、どのように生きていくべきなのかということの、とてつもない重みを思わずにはいられなくなる。

 私たちはときに、単純で美しい嘘に容易に騙されてしまう。それは、私たちが自分にとって都合のいい部分にしか目を向けないという愚かさゆえの過ちでもあるのだが、逆に「真実」に目を向けることで、自身の信じていた何もかもが壊れてしまうことへの恐怖がそうさせていると言い換えることもできるのだ。はたして、川戸英太郎が真に守りたかったものとは何なのか、そしてそのために彼は、何を信じようとしていたのか――その答えを戦慄とともに、ぜひとも感じ取ってもらいたい。(2010.02.13)

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