【すばる舎】
『骨太の子育て』

上田早苗著 



「自分を好きになれない者が、他人を好きになれるはずがない」――男女の恋愛をテーマにしたテレビドラマなどで、この手のフレーズが使われはじめたのは、いったいいつ頃からだろうか。少なくともずっと昔、といっても私の年齢だとせいぜい80年代くらいまでしか遡れないのだが、まだバブル経済が健在なりし頃の恋愛ドラマでは、人が人を好きになるのに小難しい理由など必要なかったように思う。いや、恋愛というのは今も昔も、えてして理屈では説明のつかない心の感情によるものであるのだが、以前の恋愛ドラマにはもっと気軽で、誰もがあたり前のように手に入れることのできるような、単純で明るい雰囲気に溢れていた。たとえば「翔んだカップル」のようなラブコメ路線の隆盛だったのは、ちょうど80年代くらいまでだったように記憶している。

 今の日本の社会は、さまざまな問題を抱えすぎてすっかり疲弊してしまっている。それまで社会から与えられてきた、正しいと信じることのできた価値観は失われ、人々は共通のモチベーションを奪われて今もなお混乱状態にある、と言ってもいい。「自分を好きになれない者が、他人を好きになれるはずがない」というフレーズの裏には、「自分を好きになれるだけの要素が何もない」という事実が隠されている。そしてそのフレーズは、次のように言いかえることもできるだろう。「自分を大切にできない者が、他人を大切にできるはずがない」、と。

 自分の中に何もない大人が自分を好きになれるはずもなく、またそんな自分を大切にしたいと思うはずもない。そして、そんな大人たちが親になり、子どもを育てていったひとつの結果として、不登校や引きこもりが社会現象と化すほど発達してしまった。本書『骨太の子育て』の著者である上田早苗は東京武蔵野、吉祥寺にある「フリースクール上田学園」を設立した方だが、彼女もまた、今の社会の抱えてしまったさまざまな問題が、その社会を構成する大人たちひとりひとりの問題であることを見抜いているひとりである。本書のタイトルにある「骨太」とは、誰かに依存したりせず。まずば自分に自信を持ち、自分の足でしっかりと立って、自分の意志で世の中を図太く歩いていく、という意味。だからこそ著者は、まずはじめに「親の自立」ということを訴えるのだ。

 先日NHKで『学校に行かれない先生達』というテーマの番組を放送していた。私はこの手の番組はなるべく見ないことにしている。なぜかというと、先生方があまりに一生懸命なことが分かり、せつなくなるからだ。その時もちょっと見て、なんとも悲しい気持ちになってしまった。親も先生も一生懸命子供のためという大義名分のもと、子供に大迷惑をかけているように思えるからだ。

 教育とはいったい何なのだろうか、ということを、あらためて考えさせられる文章だと思う。文部科学省がうちたてている「ゆとり教育」あるいは「個性をのばす教育」という名のもとに、授業時間を減らしていった結果、子どもたちを教える立場にあるはずの先生達のゆとりがなくなってしまったり、また不登校になった子どもをフリースクールに通わせた結果、簡単な算数の計算や辞書の引き方といった「基礎学力」すら身につかないまま大きくなってしまったり、といった弊害があちこちで出ているそうであるが、それもけっきょくのところ、「社会のため」「子どもたちのため」という大義名分のなかに、大人たちが逃げ込んでしまっているからなのだろう。何から? 自分と向き合う、ということから。

 親が自立するということ――それは、社会や家庭における肩書きを一度すべて取り払ったあとに残っている、まぎれもない自分自身と真正面から向き合う、ということだ。そして、これまで社会から与えられてきた「良い大学に入る」「良い会社に入る」「経済的に豊かになる」といった共通のモチベーションにもたれかかり、自分との対話を怠ってきた人間であればあるほど、裸になったときの自分のちっぽけさ、みずほらしさに直面しなければならなくなる。それはけっして楽な作業ではない。だが、そうした作業を経ないまま、まるでスローガンを置き換えるかのように「社会のため」「子どもたちのため」と叫んでみたところで、事態は好転するどころか、ますます悪くなる一方だろう。そして事実そうなりつつある。

 とくに、計算や辞書の引き方を知らない子どもが増えている、という本書の指摘には恐ろしいものを感じた。私はいわゆる「勉強ができる」子どもだった。「勉強ができる」ということと、「頭がいい」ということとが必ずしもイコールで結びつくわけでないことは周知の事実であるが、それでも義務教育における「勉強」を経なければ、おそらくこうして文章を書くことさえできなかったに違いない、と今では思っている。

 簡単に言うなら、「自由に学ぶ」という名目のもとに、「好きなことだけを学ぶ」という選択をした時点で、一生算数や計算が苦手になったり、辞書の引き方を知らない不便な生活を強いられるかもしれない。自由に学ぶことを選びとる子供達は、一見、利益を得ているように見えるが、実は将来に対し可能性の幅を狭め、決定的な損失をしてしまうのではないだろうか。

 本書の巻末には、小説家村上龍との対談が載っているが、そこで彼は「もっとみんな自分勝手になればいいと思う」と述べている。少なくとも、今の大人たちが自分のことを考えたときに、何もない自分に直面するのが怖いという理由で、社会や子どもたちのことに手を出し、さらに傷口を広げてしまうことを考えたとき、村上龍のこの指摘は正しいと言えるだろう。そしてそれは、「親の自立」ということを訴える著者の主張にもつながるところがあるだろう。

「自分探し」ということがしきりに叫ばれ、イチローがCMで「変わらなきゃ」と言いはじめるまでもなく、本当は、誰もが薄々感づいているのだ。「今の自分のままではダメだ」ということに。だが、それがいかに困難な道のりであるかを指摘するために、最後に著者にあてられた手紙の一部を引用することで締めたいと思う。

 もう子供に本当のことを言ったほうがいいのかもしれない、という気までしています。「親は間違って自分というものを持たないまま親になり、子であるあなた達を苦しめるかもしれないけど、あなた達は、その間違った親に負けてはいけない」のだと。「その親に打ち勝って、自分を作り、自分を探し、今度は自分が自分を持った親になりなさい」と激励するしかないような、そんな気がしてきました。

(2002.04.11)


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