【集英社】
『骨笛』

皆川博子著 



 現実という形は、けっしてひとつではありえない。赤緑色盲の人が見る世界と、そうでない人が見る世界とが異なっているように、またキリスト教徒の考える世界観と仏教徒が考える世界観が違っているように、この現実世界に対する認識のしかたはひとりひとり千差万別で、極端なことを言えば、この地球上に五十億人の人間がいるとすれば、五十億種類の現実が存在することになるのである。そして、五十億種類もの世界観があるとすれば、当然その死生観に関してもいろいろな考え方があるはずだと言えよう。
 人の死というものを、どのようにとらえるのか――ある人は、人生の終着点、自分という存在が無に帰する瞬間だと考えているかもしれないし、ある人は肉体の生命活動が停止すること、という極めて物理的な考えの持ち主かもしれない。あるいは、新たな世界への旅立ちととらえているかもしれないし、永遠に続く輪廻の一過程という認識をもっているかもしれない。死という観念すらまだ確立させていない子どもだっているだろうし、あるいは何も考えていない人だってきっといることだろう。それならば、と私は思う。もし、ある人が、自分が死んだと思わなければ、自分も他人もけっして死んだことにならない、という認識を唯一の現実と信じて生きているなら、それはその人にとっての真実になるのではないか、と。生と死という、けっして逃れられない枠組が完全に意味をなくし、死人も生者もなんら変わりのない世界のなかで生きている人にとっては、誰が生きていて誰が死んでいるのか、といった区別、いや、それどころか自分がまぎれもない自分自身である、といったアイデンティティすら、その人にとってはたいしたことではなくなるのかもしれない。

 本書『骨笛』は、八つのショートストーリーを収録した短編集という体裁をとっている。だが、この八篇すべてが独立したストーリー構成をとっているのかと訊かれれば、そうではない、と答えるしかない。たとえば『沼猫』のなかに登場するマユという名の少女、彼女は『骨笛』のなかでは主婦、しかも泉という名のひとり娘に死なれた母親、真由として再登場する。では、マユと真由は同一人物で、泉はマユ(あるいは真由)の娘なのかというと、それは間違いではないが、同時に正しくもない、ということになるだろう。たとえば『夢の雫』という短編にも泉という名の少女が出てくるが、彼女の母親の名前は真由ではなく、裕子ということになっている。あるいは『噴水』という短編には、マユと泉が同年代の少女として知り合い、しかも同時に大人の真由らしき女性(名前は出てこないが、真由ではないかと匂わせる文章がある)が、そんなふたりのことを見ているという、時間と空間の法則をまったく無視しているような構成となっているのである。

 短編集のそれぞれの登場人物が、短編という枠を超えて、さまざまな場面でさまざまな役割を担う――そこには時間や空間の概念はまったく無意味であり、それどころかその登場人物が死んでいるのか生きているのか、といった要素すら超越しているように思われる。じっさい、『月ノ光』では、アヤコを捨てた男とケンカをしたあげくに死んでしまった男が、幽霊としてアヤコの娘であるミオとごく普通に話をしているし、その幽霊は『夢の黄昏』では、泉を妊娠させたあげく自殺に追い込んでしまった(と匂わせる会話を真由らしき中年女性としている)青年の役として再登場し、さらにミオもまた、『骨笛』では絵描きとして、そして骨笛の持ち主として真由とかかわることになるのである。

 この非常にいびつな形でからまりあった登場人物たちによって構成される八つの短編集――これをもっともすっきりとした形で理解するには、それぞれの短編を完全に独立したストーリーと判断するしかない。だが、複数の短編のなかに同じ名前の人物、もしくは名前こそ出てこないが同一人物らしい伏線をほのめかす人物が登場する以上、読者はそこになんらかのつながりがあるのではないか、という考えをどうしても捨て去ることができない。しかもさらに読者を混乱させることに、登場人物たちは、そのような異常な事態を当然のものとして受け入れている、ということである。それゆえに、たとえば唐突に出てくる「沼猫」という単語、あるいは「骨笛」という単語に関する説明は、いっさいない。説明がない以上、読者はどんなに不満でも、とにかく先を読んでいくしかないのである。それが嫌なら、本書を放り出すしかない。

 本書全体を覆っているのは、理解できないことが理解できないままゴロリと放り出されているような、そんな居心地の悪さだ。しかし不思議なことに、その居心地の悪さは、けっして不快感といった負の感情を引き起こすことはない。遺産相続や夫の海外転勤といった、きわめて現実的な要素を見せながら、登場人物は一様に感情の起伏に乏しいところがあり、それがまるで、夢の中にまどろんでいるような雰囲気を漂わせることに成功しているのである。あるいは、本書の中ではある記憶が別の記憶と入り混じって存在しているのかもしれないし、あるいは記憶を捏造しているところがあるのかもしれない。そう考えたほうが、よほど現実的だと言えるだろう。だが、小説という虚構のなかで、どこまでが現実でどこまでが夢幻なのか、そんなことを考えること自体、無意味ではないか、と読者に思わせてしまうような、そんな力が本書には、ある。

 田浦が幽霊みたいな男を殺して姿を消したあのころから、いえ、炎の時代が終ったころから……わたしは、半分死んでいるみたいに生きてきた。同棲も結婚も出産も育児も手術も離婚も、そうして生活費を得るための会社勤めも、生きている手応えはなくて、シュールな映画の非日常の空間のなかでだけ、生の実感をあじわえた。(『夢の黄昏』より)

 この世に五十億種類あるという、それぞれの人の現実の形――そのなかのどれが真実なのかを考えること自体、ナンセンスである。それならば、どのような形の現実があってもおかしくはないし、その現実を受け入れるしかないのだろう。そんな皆口博子の展開する「不思議な居心地の悪さ」を、心ゆくまで味わってもらいたい。(2000.05.02)

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