【新潮社】
『奔馬』
豊饒の海(二)

三島由紀夫著 



 純粋であるとは、いったいどのような状態のことを言うのだろうか。
 これが金や銀といった鉱物であれば、金なら金、銀なら銀以外の不純物がいっさい混じっていない状態のことを指すし、血統であれば別種の血が混じっていない、いわゆる混血でない状態のことを指すのであろうが、では人間がその生において純粋である、とはどういうことなのだろう。

 キリスト教の世界においては、人間が生まれながらにして罪を負っているという「原罪」の思想がある。また仏教においては、種々の煩悩に犯された自らの魂を悟りに到らせないかぎり、輪廻を繰り返すという業を持ち合わせているという。もし、純粋という言葉に「罪穢れのない、清らかな状態」という意味が含まれるのであれば、そもそも人間という生物は生まれながらにして不純、ということになってしまう。生きるために他の多くの生命を奪ってこれを食らい、快適さを求めるために自然の秩序を無視して周囲の環境をつくりかえ、あまつさえ怒りや憎しみといった負の感情をもてあまし、雑多な欲望のためにさらに罪を重ねつづける私たち人間は、ある意味ではまさに本質的な穢れであり、その存在自体がひとつの罪であるのかもしれない。

 三島由紀夫の晩年の大作「豊饒の海」四部作――その第二巻にあたる本書『奔馬』は、それでもなお純粋であることに固執するあまり、自分の行動を「純粋な死」に結びつけることで穢れた生を純化しようともがいたひとりの少年の物語である。

「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」――聡子との結ばれない愛を求めて若くして死んだ松枝清顕が、その最期に放った言葉を聞いてから、すでに十八年。清顕の無二の親友であった本多繁邦は、大阪控訴院の裁判官となっていた。時代は昭和七年、五・一五事件に代表されるように、日本の社会は急激な西欧化と、それと呼応するかのような頽廃――農民の疲弊、世界恐慌から尾を引きつづける不況、それに対する政府の無策と政治腐敗、そして財閥階級の経済支配による貧困の格差など、まるで今の日本の現状をそのまま映しているかのような社会情勢にあった。

 法律とは論理の世界に属するものである。そして法律にしたがって、あくまで法の執行人として人を裁く裁判官という地位に本多が就いたのは、前作『春の雪』でも一貫して理性と理論を象徴し、方向性も結論もない感情のままに生きようとした清顕と対照をなす存在でありつづけた、という意味ではしごく妥当な道であったと考えられるのであるが、それは同時に、それまで無感動、無目的で、それゆえに透明な美しさを湛えていた清顕の、あまりにも大きな変貌をまのあたりにした本多が、かろうじて生きるのに残された論理の世界に逃げ込む行為でもあったと言えるだろう。
 だが、ひとりの少年との出会いが、そんな本多を論理の世界の高みから引きずりおろすことになる。飯沼勲――神前奉納剣道試合において五人抜きを果たした剣道界の神童であり、その目に激烈な意思の力を秘めた少年の体には、かつて清顕にあったそれとまったく同じ形の黒子が刻まれていた……。

「豊饒の海」四部作は、夢と転生の物語だとされている。本書において本多ははじめてそのテーマのひとつである「転生」の可能性を示唆するにいたるわけだが、転生の本人である勲自身は前世の記憶を持っているわけではなく、したがってまったくの無自覚である。かつての清顕の家庭教師であり、現在勲の父でもある飯沼茂之でさえ、転生の可能性には気づいていない。知っているのは本多と、物語の外にいる私たち読者だけ、という状況のなかで、物語は展開していく。

 こう思うとき、本多ははからずも、自分の心のうちを覗いていた――(中略)――そして、ひとたび人間の再生の可能がほのめかされると、この世界のもっとも切実な悲しみも、たちまちそのまことらしさとみずみずしさを喪って、枯葉のように落ち散るのが感じられた。それは何かしら、悲しみによる人間の気品が本質的に損なわれるのを見る忌わしさにつながっていた。それは、考えようによっては死よりも怖ろしいものであった。

 人間が生きている、ということ――それは本多の言葉を借りるなら「喰べる人間……消化する人間……排泄する人間……生殖する人間……愛したり憎んだりする人間」ということになるだろう。だが勲は、転生の可能性という要素によって、すでにその人間の定義を超えた存在だと言うことができる。そして本書を読んでいくと、清顕と勲が、その容貌や性格が対照的であるにもかかわらず、至高の美を、けっして手に届くことのない美しさを追い求めるという点で、ふたりはまさに同一の性質を宿した人間だということがわかってくる。明治時代に起きた、右翼思想の愛国家たちの蜂起を描いた「神風連史話」に大きな感銘を受け、今のこの暗雲たちこめる日本の現状を打破する昭和の神風連を志し、腐敗した政治を倒して革命を起こすための同志を募り、秘密裏に計画を進めていく勲の、悪を絶つためには社会秩序を乱すことも辞さない強い意志、そして神世の復古という大義名分のために、自らの命を犠牲にするという行為は、まさにこれ以上はないという「純粋な生」であり「純粋な死」であった。清顕も勲も、意識するしないに関わらず、生の情熱のベクトルが死に向かっているという共通した矛盾――だが、その相反するものが同時に存在したその瞬間、勲の命はある意味で生と死の境界を超えた存在としてその輝きを増すことになる。そして本多は、その輝きのなかに、まぎれもない清顕の美を垣間見る。それは、本多にとっての論理が直観へと変換される瞬間でもある。

 だが、勲は真の意味で純粋でありえたのであろうか。常に美しく死ぬということを考えるがゆえに現実感に乏しく、自分の外に広がる、純粋とはあまりにもかけ離れた現実に無頓着なまでに目を向けなかった勲の魂は、そもそもはじめから現実を生きることを拒否していたのではないだろうか。だとするなら、勲のこれまでの生は、まさに幻と同じということになってしまう。そして、いみじくも本多が思うように、転生の事実がその当人から「人間らしさ」を乖離させるのであるならば、純粋であることの幻だけを追って生きた勲の生は、あまりに脆く、儚く、そしてそれゆえに無上の美しさを抱えたものとなる。あるいはその瞬間、彼は穢れた人間であることをすでにやめていたのかもしれない。

 純粋物よりも合金のほうがより強度を高めることができ、純潔種よりも雑種のほうが生存競争にとって有利であることは、誰にでもわかる事実である。生きることよりも死ぬことを望み、生きるための力である穢れを捨ててまで純粋であろうとした勲の生は、まさにそのタイトル『奔馬』のごとく、激しく、美しく駆け抜けていったのかもしれない。(2001.01.06)

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