【新潮社】
『ようこそ地球さん』

星新一著 



 同じ事物と対峙していても、その立ち位置の違いによってものの見方や感じ方が大きく異なってくる、というのは、わりとよく見られる現象だったりする。この手の話で一番わかりやすいのは、サイズの問題だ。本川達雄の『ゾウの時間 ネズミの時間』によれば、ハツカネズミ程度の大きさの動物であれば、六階建てのビルの屋上から落としても傷ついたりすることはないらしい。もちろん、それは体重が数十グラムという軽さであるからできる芸当であって、私たち人間であれば怪我どころか、下手をすれば(下手をしなくとも)死んでしまうことになる。もし、ハツカネズミに人間のような意識があるとしたら、少なくとも高いところから飛び降りるという行為について、何ら恐怖を感じることのない思考が形成されると想像することができる。そう考えたときに、ネズミの思考が人間の思考とは大きく違っているはずだ、という推測が出てきてもおかしくはない。

 私たち人間が、とかく自身の常識というものを絶対視しがちな生き物であることは、これまでの書評において何度も繰り返し述べてきたことであるが、とくに自分が「人間」であるという事実から生み出される常識というのは、そのような頭脳や体を生まれたときから備えているがゆえに、どうしてもそれを前提としたものの見方をしてしまいがちになってしまう。人間以外の動植物や機械、記号、概念といったものを、まるで人間であるかのように捉えなおすことを「擬人化」というそうだが、そこにあるのはあくまで人間側から見た一方的な捉え方であり、その枠を越えるようなものではないし、また越えてしまっては「擬人化」とはもはや言わなくなると思われる。

 本書『ようこそ地球さん』は、SF作家である星新一のデビュー作『セキストラ』を含む四十二編を収めた作品であるが、著者のことを語るさいに、非常に短い掌編とも言うべき「ショート・ショート」の分野を開拓した作家、というのも注目すべき点である。文庫版のページにして数ページ、長くても二、三十ページ程度の長さであるショート・ショートは、言ってみれば一発芸のようなものであり、いかに意想外な展開で読者をあっと言わせるかという点がすべてのようなところがある。そしてその「あっと言わせる」展開として本書が秀逸なのが、私たちが人間であるがゆえに陥りがちな「常識」という名の偏見を、その視点をさりげなくズラすことで「常識」でなくしてしまうというその手腕である。

 SF作家という肩書きで知られる著者だけあって、書かれている内容は宇宙人をはじめ、地球以外の惑星への探索や科学が高度に発達した未来の機械、タイムマシンや冷凍睡眠といったSF的な要素が随所に見られるが、すべての作品がSFテイストで染まっているわけではない。たとえば、自殺した女タレントが書いたとされる遺書が、じつは彼女の出演したドラマの小道具ではないかという観点から捜査をする刑事の話である『証人』は、現代が舞台だとしても何ら遜色のない内容であるし、『西部に生きる男』はそのタイトルどおり、アメリカの西部開拓時代っぽい世界が舞台となっている。『患者』では精神科の医者が催眠術で治療をするという話であるし、『たのしみ』に出てくる小さな村は、むしろ少し前の日本の風景を思わせるものがあったりする。

 何かの加害者であった者が次の瞬間には被害者に転落していたり、観察する側だった人たちがあっという間に観察される側に変わったり、あるいはある行為が想定していたのと正反対の反応を相手に与えたりといった形で、話の最後に読者の意表をつく展開をもってくるショート・ショートを読んでいると、著者の書きたいと思っていたテーマが「SFテイスト」ではなく、より本質的な「SF」であることが見えてくる。これは、たとえば「ファンタジー」という分野について、単純に「剣や魔法が出てくるもの」と定義するのとは対極に位置する概念で、私がこれまでの書評で何度か用いてきた「センス・オブ・ワンダー」と同義ととらえられるものである。

 「センス・オブ・ワンダー」とは何かという命題について、私が個人的に考えているのは、何かに対する驚異の感覚である。それまで思いつきもしなかった事物と接したときに感じる、驚きの感情――そのもっとも手頃な要素として著者のなかにあったものが宇宙関係のものだった、と私は考えている。たしかに未知の惑星や宇宙人などは、私たちがもっとも想像しやすい、なんでもアリが通用する「驚異」だ。だが、驚異の感覚は何もそうした要素にばかり宿っているわけではない。極端な言い方をすれば、自分の隣にいる他人だって、頭のなかで何を考えているのかわからない、という意味では、充分に「驚異」の要素となりうるのである。たとえば『不満』というショート・ショートは、一人称の「おれ」について、読者が自分と同じ人間であるという前提で読み進めることを利用したもので、ある意味で自分と同じ姿の他人に感じる驚異とは逆のパターンを用いたものと言える。

 それにしても、本書のなかで描かれる、私たちがあたり前だと思っていた価値観が転倒したかのような世界は、たとえば性的興奮を人工的に得ることで、人間を犯罪へと駆り立てる衝動を打ち消した『セキストラ』にしろ、あるいは性に対していっさい興味をもたなくなった子どものために、むしろ国家がポルノを推奨するようになる『テレビ・ショー』など、現代においても私たちのあいだで問題視されるようなテーマが多く、古臭さを感じさせないものがある。その転倒はときに、人間という自我と想像力をもつ生き物を、ただのたんぱく質の塊と認識するかのような過激さを見せることもあるのだが、そのあたりの表現はグロテスクというよりは、むしろ寓話めいた雰囲気があるのも本書のひとつの特長である。だが、そうであるがゆえに、そのショート・ショートの意図するところに気がついた読者は、よりいっそう考えさせられることになる。

 ちょっと良い話で終わるものもなくはないが、何より私たちが築きあげ、生活している人間社会が抱えこむ矛盾や傲慢さに対する皮肉が痛烈に感じられる本書は、少なくとも私たちが今の自分を定義する「人間」でいるかぎり、いつまでも付きまとうものであると言える。はたして、その「人間」の定義とは何かという本書の問いかけに、私たちはいつになったら答えることができるのだろうか。(2013.10.21)

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