【新潮社】
『風流冷飯伝』

米村圭伍著 
第五回小説新潮長篇新人賞受賞作 



 以前このサイトでも紹介したジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』は、何かと理不尽なことの多いこの世の中で、身に降りかかる困難を笑いとばし、逆にその困難を楽しんでしまおうという、イギリス知識人階級のユーモア小説であるが、この作品の書評を書き終えてしばらくしたとき、ボートに乗って旅に出たあの三人の男は、どのような身分の人たちで、ふだんどういった仕事をしているのだろうか、ということがふと気になったことがある。

 作品のなかにそれを示唆する記述はほとんどなく、したがって、これはあくまで想像でしかないのだが、彼らはけっこういい歳した男性であるにもかかわらず、じつはまだ結婚もしておらず、場合によってはちゃんとした仕事にすら就いていない、言ってみればどこかの家の冷飯食らいの立場にあったのではないだろうか。要するに、ボートに乗って二週間近くの旅行を実行できるような、良く言えば融通の利く、悪く言えば暇をもてあましている種類の人たちである。

 自分が生まれてきた社会的環境のなかで、自分の本当の居場所がどこなのか、そして自分が本来何を成すべきなのか、というのは、人間である以上常に背負いつづけなければならない、大きな命題のひとつである。人はひとりで生きていくにはあまりにも弱く、それゆえに集団を組み、お互いに助け合って生きていく。そして、そんな人間社会の一員として、自分もまたその社会のために役立つ存在でありたい、あるべきだと考えるのがふつうである。だが、たとえば会社でも学校でもかまわないのだが、ある集団のなかで、いっけんすると何の役にも立っていないように思われる、ただ養ってもらっているだけでそれに見合うだけの仕事をこなしていない人たち、あるいは自分の利益のみを優先してばかりいる、自分勝手な人たちというのは、どこの世界にも共通していたりするものだ。

 今回紹介する本書『風流冷飯伝』には、そんな「冷飯食らい」の立場にいる人たちが大勢登場する。そして本書は、まさにそんな人たちによって生み出される物語である。時は江戸時代、天下泰平のまっただなかともいうべき、第十代将軍徳川家治の頃、四国讃岐地方にある風見藩にやってきた幇間(たいこもち)の一八は、じつは、とある目的のために幕府から派遣された公儀隠密の手先だったりするのだが、先々代の藩主が定めたという奇妙奇天烈な習わしの前に出鼻をくじかれっぱなし。たまたま知り合った飛旗数馬なる武士にとりいることには成功したものの、彼は武家の次男坊ゆえのいわゆる「冷飯」であり、とくにきまった仕事があるわけでもなく、日がな一日、何か面白いことがないかといろいろ観察するのが趣味だという変わり者。はたして、こんな珍妙でどこかのんびりとした外様の小さな国に、幕府がいったい何の用があるというのか……。

 二層半というなんとも中途半端な風見城を中心に、男は左回り、女は右回りに歩くこと、武士は頬かむりをしてはいけない、一家の家長長男は囲碁将棋禁止――いったい何のために定めたのか、一部はその由来すら忘れ去られている風見藩の奇妙な習わし、という謎を皮切りに、風見藩やそこに登場する人たちのかかえる小さな謎を小出しにしていくことで、読者の興味をつなぎとめていくとともに、少しずつ架空の舞台である風見藩という世界に読者を引き込もうとする手法が巧みな本書は、次第にその謎が大きなものとなり、最後には風見藩の存亡やいかに、というレベルにまで発展していく。そういう意味では、多分にミステリーとしての要素が大きい時代小説ではあるが、本書の一番の特長は、その主要な登場人物の誰もが、社会的にはほとんど何の役にも立っていないように思える、いわゆる「冷飯食らい」たちであるという一点に尽きる。

 一八は立場上「隠密」であるものの、生来のぐうたら者であり、いつわりの身分であるはずの「幇間」がすっかり生業となってしまったかのような人物で、今回の隠密としての役目にもまったくもって積極的ではないし、飛旗数馬は武士ではあるが、およそ武士らしい仕事に就いているわけでもなく、出世とかいった欲望とは無縁に生きている。他にも風見藩には、日がな一日釣りばかりしている池崎源五や、巨躯でありながら人と争うのが苦手な「おじょも」こと鳴滝半平太など、個性的な人物が大勢登場するが、誰もが何か、たいして役にも立たないことにお熱だったり、およそ実益の出そうもない才能をもっていたりする者たちばかりである。そもそも風見藩そのものが、およそ意味のなさそうに思える習わしに溢れているし、第十代将軍家治でさえ、一般的にはあまり才能のない、遊戯に金を浪費した軟弱将軍という位置づけにある。

 言ってしまえば、本書における「風見藩」とは、社会的には弱小な立場にあるもの、有能な人たちのおこぼれによってかろうじて生きている「役立たず」の象徴でもあるのだ。だが、社会とはけっきょくのところ人間によってその価値が決定されるもの、何がどのような役目をはたし、結果として社会に貢献することになるかを計るのに、たんに効率だけを優先させればいいというわけではない。「冷飯食らい」には「冷飯食らい」なりに、果すべき役割は必ずある――本書を読み終えたときに感じたのは、そうした著者の意図であり、また人としての真の価値は、たんに有能であること、勉学ができることだけで決められるものではない、という人としてのあたたかみでもある。

「誰とは言わぬが賄賂を取って商家に都合のいいように政治を動かしたり、肉欲酒食にふける輩も確かにおるな。だが、そのような奴輩は結局民の信望を失い消えて行くのだ。なあ一八、武家が武家たる誇りと慎みを忘れ、金が全てを支配する世の中になってみよ、それで万民が幸せになると思うか」

 アリは集団で生活をする昆虫であるが、そのなかで同じ働きアリでありながら、じつはあまり働かないアリがいる、という話を聞いたことがある。実験では、その「働かないアリ」を集団から取り除いても、しばらくすると普通の働きアリのなかからまた「働かないアリ」が出てくるという。一説によると、ただエサをとることばかりに有能なアリばかりがいる集団よりも、こうしたいっけん「働かない」アリたちが若干混じっている集団のほうが、結果としてより多くのエサを集めることができるのではないか、ということであるが、ひとつの生態系として、より多様性がある集団のほうが、さまざまな場合に対処することができるという事実を考えたとき、この「働かないアリ」の話同様、本書もまた、社会における自身の「居場所」について、ちょっと救われたような気分にさせてくれるものがある物語だと言うことができるだろう。(2004.11.23)

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