【講談社】
『ヒトクイマジカル』

西尾維新著 



 たとえば、私たちは人間がこの世に生まれてきた以上、かならず死を迎える存在であることを知っているし、この広い世の中のどこかで、誰かが何らかの形で死を迎えているという事実もよく知っている。ゆえに、人の死というものがけっして珍しいことでも、特別理不尽なものでもない、と理論づけることは、それほど難しいことではないのかもしれないが、そのことと、死というものに対して人間がいだいてしまう恐怖や不安といった感情とは、まったく別次元の問題である。

 たとえば、自分の死というものを考えるのは怖いし、自分がよく知っている人が死んでしまうというのは、けっして気持ちのいいものではない。ましてやそれが、自分にとって大切な人の死であったとすれば、その悲しみはけっして小さなものではないだろうし、それが何者かによって理不尽に与えられた死であれば、そこに憎しみや怒りの感情だって生じることだろう。また、それが見ず知らずの人間の死であっても、それを新聞やニュースからの情報で知ることと、まさにその死の場面に居合わせてしまうこととでは、天と地ほどの違いがあると言っていい。

 およそこの世にあるさまざまなリアルのなかで、「死」というリアルほど圧倒的であるにもかかわらず、その具体像を思い描くのが困難なものは、そうそうあるものではない。できることなら、死にたくはない。そしてそれと同じくらい、誰かを殺したいとも思わない。だが、もし誰かを殺さなければ自分の大切な人が死んでしまう、あるいは自分が殺されてしまう、という事態に陥ってしまったとするなら、人によってはその相手を殺してしまうこともあるとは思う。ただし、そこに到るまでにはおおいに悩むだろうし、おおいに逡巡することになる。そして、たとえそのときは何も思わなかったとしても、そのあとに必ず重苦しい感情にさいなまれることになるはずである。どちらにしても、人の死というのは、けっして取り返しのつかない「絶対」に他ならないものであるのだ。

 さて、本書『ヒトクイマジカル』で物語の語り部である「ぼく」こといーちゃんは、「死なない研究」をしているという木賀峰助教授に、ほとんど強引な形でアルバイトに誘われることになる。それは彼女の研究のモニターになる、というものであるが、そもそも「死なない研究」というもの自体が奇怪きわまりないものであるうえに、例によって例のごとく、彼はまたもや殺人事件に巻き込まれることになってしまう。そして、これまでこの「戯言」シリーズを読んできて、およそそこで起きた、理不尽極まりない多くの殺人や、そこに絡んできた登場人物たちを見てきて私が感じたのは、彼らが人の死というものについて、恐ろしいほど淡白で、かつほとんど迷いがない、という点であった。それは、自分に与えられた目的をはたすためには、邪魔な人間を殺すことについてまったくといっていいほどためらわない、ということでもある。たとえばその目的が「大切な人を守るため」であれば、たしかにそれは感動的ではあるが、だがそのことと、じっさいにためらいなく殺人に至るということとは、まったく別問題のはずなのだ。

 物語のなかにおいて、重要な登場人物が死ぬというのは、読み手を感情的に揺さぶるためのもっとも効果的な展開のひとつである。『クビキリサイクル』からはじまるこの「戯言」シリーズのなかで、物語があくまで殺人事件を解決するというミステリーの形をとり、また天才や殺人鬼、異能力者といった、けっして尋常とはいえないキャラクターばかりが登場するのは、物語における「死」の役割に対する、一種のアンチテーゼの意味合いがあるのではないかと思っていたが、前作『サイコロジカル』において、まさに死ぬためだけに登場したとしか思えない人物が存在したことは、言い換えれば「物語」によって、その登場人物はトリックのための「死」という役割をあたえられた、ということでもある。

 私たちは物語が虚構であることを知っている。だが、それでもなお私たちは、そこにリアルを求めずにはいられない性質をもっている。ましてやそれが人の死であれば、なおさらのことだ。だが、このシリーズにおいて「死」とは、物語によってあたえられる記号にすぎない、というスタンスがつねにあった。そうした「死」の意味と、本書における「死なない研究」というキーワード、さらには本シリーズの物語としての流れと、その流れのなかで、どんな登場人物がどんな役割を担うことになるのか、という点を考えたとき、ようやく――この「戯言」シリーズが向かうことになるひとつの筋道が見えてくることになる。

 シリーズを通して、唯一物語における一定の役割を与えられない中途半端な人物として、いーちゃんは存在してきた。彼は探偵役になるべき立場にありながら、けっして探偵になりえないキャラクターとして、戯言を駆使して自身の立場が固定されることを否定してきた。これは、シリーズにおいて殺人事件を完璧に解決するという役割に縛られている、あくまで「請負人」でしかない哀川潤でさえ、保ちえない立場である。だからこそ彼女は、『クビツリハイスクール』において彼のことを過大に評価してきたわけだが、前作において「戯言遣い」としての立場を崩されたいーちゃんが、今回ようやく自分の意思で、何がしかの「役割」を担う決意を固める、という意味で、本書が前作以上の転換期を迎えた作品となったことは間違いないだろう。

 殺人事件を発生されるためだけに登場し、そして殺される登場人物たち――それは、物語の展開としてはけっして変えられない運命であることは間違いないが、登場人物たちにとっては、そんな世界の外ではたらいている「運命」などわかるはずもないし、また関係ないことでもある。そんなふうに考えると、はたしてこれからいーちゃんは、何に対してどんな戦いをすることになるのだろうか、と興味深く思わずにはいられない。そして、読者にそんなふうに思わせるところが、また著者の作品の面白さであり、魅力でもあるのだろう、とあらためて思うのである。(2006.01.28)

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