【河出書房新社】
『小鳥はいつ歌をうたう』

ドミニク・メナール著/北代美和子訳 



 たとえば、私たちが就職活動をするさいには大抵、履歴書というものを用意する。それは雇用者に自分という人間のことを知ってもらうためのものであり、私も就職活動時には何枚も履歴書を書いたものだが、生年月日や姓名、住所や学歴といった自分自身の情報をどれだけ書き込んだとしても、その履歴書がはたして私という人間の真実の姿をどの程度伝えるものなのだろうか、とふと思ったことがある。

 もちろん、雇用者にとって必要なのは、その人間が会社の利益となりうるかどうかの情報であって、私という個人の情報すべてを把握したいと考えているわけではないし、またそんなことは事実上不可能であることもわかってはいる。だが、べつに就職活動にかぎらず、自分のことをもっとよく知ってもらいたいと思っている相手に対して、どれだけ多くの言葉を費やしたとしても、それで自分のことをすべて伝えきったという充足感が得られることはないだろう。

 私たち人間は言葉をもち、言葉によって世界を自分たちの領域へと取り込んでいくことで発展していった。目に見えるものはもちろんのこと、目にも見えず、それ以外の感覚器をもってしてもとらえられない、実在するのかどうかもはっきりしないものに対してさえ、名前をつけることによってそれは実在するものとして受け入れられていった。そして何より、私たちにとっての言葉とはコミュニケーションのための道具である。だが、にもかかわらず、言葉はしばしば私たちを裏切る。「なんでもないよ」「大丈夫だよ」という言葉は、大抵なんでもなくないとき、大丈夫じゃないときにかぎって出てくるものだったりする。人間に与えられ、世界を理解し、相手を理解するために必要な言葉――だが、その言葉はなぜこれほどまでに不完全で、物事の真実からしばしば私たちを引き離してしまうのだろうか。

 Dはわたしの名前のイニシャル。だから、日記だと思った。けれどもこの「ぼく」も、この「D」も、わたしには覚えがなかった。

 本書『小鳥はいつ歌をうたう』は、ある母親と娘の物語であり、同時にある男と女の物語でもある。母親の一人称「わたし」によって語られるこの物語自体は、けっして劇的な展開を含んでいるわけではなく、むしろひっそりとした静けさのなかで、密やかに紡がれていくという印象が強いのだが、その最大の要因として、本書の中心人物である母子が抱えている特殊な状況がからんでいるのは間違いない。それは、母親が読み書きできないという現実であり、まだ幼い娘のアンナが言葉を発しないという事実である。

 読み書きのできない母と、言葉を発しない娘――だが、本書を読み進めていくことによって、読者はこのふたりが単純な要因、たとえば、先天的あるいは後天的障害といった原因をかかえているわけではないことを知ることになる。じっさい、この母親は小さい頃には絵本に書かれた文字を読むだけの力は備えていたし、かつて一緒だった男が書いていた日記の内容を、ある程度までは理解していたところがある。また、いつまで経っても声を出そうとしないアンナのために、名前や住所を書いた紙や布きれを用意し、娘の服に縫い込んだりもしている。そして、そのアンナが言葉を発しないのは、耳が聞こえないせいではない。

 声を発しない、書かれた文字を読むことができず、書くことができない、ということは、私たち人間が生きていく社会と関わりあっていくうえで必要不可欠な情報収集や、コミュニケーションといった要素が大きく制限されることを意味する。だが、その非常に制限された世界のなかで、それでもこの母子は生きている。そしてその生き方は、必然的に社会との関わりあいをできるかぎり遠ざけるような生き方にならざるを得なくなる。自分と世界とをつなぐための道具である言葉――だが、読み書きのできない「わたし」は、かつて付き合っていた男の日記に書かれた言葉ひとつひとつを黒い四角で塗りつぶしていったように、言葉に対して反抗をつづけているとも言える。それは、言葉が世界の姿をそのままとらえるのではなく、あくまで約束事でしかないこと、それゆえに、ときに言葉が人間を裏切ることもあるという不完全さに対しての反抗である。そして、「わたし」が言葉への反抗の象徴であるとするなら、言葉を発しないアンナ、言葉による世界との関わりあいを無言で否定しつづけているアンナは、いわば言葉の無力さの象徴であり、そういう意味で、ふたりは一体であるとさえ言えるのだ。だがその関係は、けっして強固なものできない。

 本書のなかでアンナは耳が聞こえない子どもたちのための学校に通いはじめ、「わたし」はそこで生徒を教えているメルランと出会う。このメルランという男性が、ふたりだけの密やかな世界に入り込んだ、外の世界からの要素であるとするなら、本書はひとつの小さな世界が別の世界によって揺さぶられ、少しずつその境界を外に開いていく過程を描いた物語、ということになる。

「ああ、そういうことか」とメルランは言った。「ほんとうにアンナが話せるようになってほしくないんだ。何がこわいんです?」

 「わたし」のアンナに対する愛情に嘘はない。だが、その愛はアンナのものであると同時に、「わたし」自身のものでもある。言葉というもの、そして言葉によって定義されるものを拒否する「わたし」にしてみれば、「わたし」とアンナとの境界についてもはっきりと定義されておらず、それゆえに「わたし」はしばしば容易にアンナの人格と混同していくことになる。アンナを愛していながらも、アンナを自身と同一視するがゆえにアンナを縛りつけ、またアンナが自分の知らないアンナになっていくことに底知れぬ恐怖を感じずにはいられない母、メルランに強く惹かれながらも、アンナを奪ってしまうのではないかと恐れ、憎んでもいる「わたし」――言葉はたしかに人を裏切ることがあるし、また無力でもある。そのことを否定するつもりはないが、しかし言葉というのは、そんなにも無力なものなのか。不完全ではあるが、だからこそ無限の可能性を秘めてもいる言葉とはどういうものなのか、その答えを導くためのものが、本書のなかにはたしかにある。(2006.04.11)

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