【講談社】
『ひねくれ一茶』

田辺聖子著 



 俳句のことについてはあまりよく知らない私でも、小林一茶という俳人がいたことくらいは――それこそ教科書レベルのことくらいは――知っている。本書のような伝記小説(と言えばいいのだろうか)を読むことの楽しみは、なんといっても一般知識程度のことしか知らないその人物の側面に触れることができることにある。言いかえれば、著者独特の価値観が生み出したもうひとりの「なまの人間」に出会える、ということだ。

 そういう意味で言えば、田辺聖子が生み出した一茶はほんとうに人間臭い。「撰集を二つもち、俳壇ではすでにいっぱし、人に知られた存在」ではあるものの、「ちょっと見は、ぶこつな手足、頑健な体躯、横太りで頬骨たかく、小鼻が大きく張って唇の厚いあたまでっかち」で、「みるからに古びた信濃者の芋助」である一茶は、江戸へ出てもう何十年にもなるのに、いまだ宗匠(俳句の家元のようなもの)にもなれず、あばら家で貧乏暮らしの毎日。だが、心の芯から俳句が好きで、暇さえあれば俳句のことを考えてはまめに帳面につけている。好きであるがゆえに金儲けのための俳句を厭い、俳諧の仲間と議論を戦わせるいっぽう、父の遺産である田畑や家、現金をなんとかして継母からぶんどってやろうと思案をめぐらせる俗人としての一茶の姿がじつに生き生きと描かれている。文章中に数多く出てくる一茶の俳句(一茶の会話には、たとえば「大丈夫。<切らるべき巾着はなし橋すずみ>というところだからね」と五七五がひんぱんに入り込んでくる)もさることながら、三人称でありながら、いかにも一茶の一人称であるかのごとき表現が地の文に多く、その半端に江戸っ子っぽく、また半端に方言っぽいリズムの文章が茶の俗人ぶりをおおいに引き立ててくれている。完璧と言っていいほど文章を使いこなしている著者の力量には敬服するしかない。

 それにしても、この小説の舞台である「浮世」の江戸時代中期の日本が、まるで現代の閉塞感のある日本の姿とダブって映るのは、どういうことだろう。下総の旅の途中に立ち寄った俳諧仲間のひとり、月船に江戸のことを聞かれて、一茶は

「火事と人殺し、物騒なことばかりですよ。この頃は、人の気が荒れているのか、怖い事件も多くてね。闇夜を流してゆく目の不自由な按摩を突き殺す奴がいるんですよ」
(中略)
「これ、どういう世の中でしょうねえ、月船さん。世は枝も鳴らさぬ泰平の御代のように思うのに、人の心はすこしずつ殺伐に、むごくなってるのだろうか」

と答えている。まるで今の日本の姿を示唆しているかのような文章だ。数ある時代劇のなかでも江戸時代を舞台にしたものが多いのは、そういった点と何か関係があるのではないか、と私などはふと思ったりするのだが。

 浅草、両国の相撲、歌舞伎や操り芝居、講釈であふれる江戸が好きなくせに、反駁せずにはいられない一茶、教養深い江戸の天才俳人たちをうらやましく思いながらも「江戸の奴らが何知つて」と息巻く一茶の姿は、まさに「ひねくれ一茶」である。あるいはそれは、この世紀末の生き方を懸命に模索している人々の、ある側面を見せてくれているのかもしれない。(1998.12.04)

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