【中央公論新社】
『ひなのころ』

粕谷知世著 



 世の中は常に移り変わっていくものであるが、それ以上に私たちがあくまで主観的にとらえる世界というものも、その時その時の状況や知識の有無、あるいは感情のありかたによってずいぶんと変化していくものである。とくに、子どもが肉体的にも精神的にも大人へと成長していく過程において、その変化が劇的なものだというのは、誰しもが多かれ少なかれ感じていることではないだろうか。そこには、それまでは自分を中心とした自己本位の小さな世界から、自分のほかに大勢の人々がそれぞれ生活を営んでいる世界へと視点を移していく過程、いうなれば、自分を含めた周囲の世界、さらには自分の目の届かない部分に広がっている大きな世界を客観視できるようになる過程が存在しているのだ。

 自分の世界を客観的にとらえる――厳密にはそんなこと不可能かもしれないが、それでも他人の視点や考えから自分をとらえていくというのは、人を思いやる想像力の発展のためにも重要なものである。たとえば、私自身の子ども時代が幸福なものだったのか、あるいはそうでなかったのかの判断は、それが他ならぬ自分自身のものである以上、なかなか判断のつけられるものではないのだが、それでもわたしの小さい頃の読書体験を聞いたある方が、本当に男の子らしい男の子だったのだろうという感想を聞いたとき、もしかしたら、自分は思った以上に恵まれた子ども時代を過ごしてきたのかもしれない、という考えが浮かんできたのをよく憶えている。

 もちろん、あらためてそのような感慨にふけることができるのは、あくまで私にとっての子ども時代が過ぎ去った時間であるからにほかならず、今まさに子ども時代を過ごしている人にとっては、あるいは今を生きるのに忙しくてそれどころでないかもしれない。世界が変化していくのと同じように、その世界に属している私という人間も変わっていく。本書『ひなのころ』という作品を読んでいくと、ひとりの女の子がとらえる世界が、そして彼女自身の心の変化していく様子が、じつに巧みに描かれているのに気づく。そう、「気づき」というのは、本書の重要なテーマのひとつでもあるのだ。

 本書は四つの章で構成されており、それぞれ主人公である郷田風美の四歳、十一歳、十五歳、十七歳の頃の話が展開していく。舞台となるのは、彼女が住んでいる古い日本家屋内という小さな世界であるが、弟の昌樹が病気がちで、両親がしょっちゅう彼の看病のために病院を行き来するような環境において、風美があまり両親にかまわれる機会がなく、それゆえに彼女が自分の世界にこもりがちな毎日を過ごしているという状況が見えてくる。唯一家にいて風美に接する機会の多い祖母のキクは、彼女にとっては何かと怒鳴られることの多い、ちょっと恐い存在だ。

 突然大きな音で鳴りはじめる柱時計、自分に笑いかけてくる仏間の先祖の写真、飾り棚から出してくれと懇願するこけしたち、内便所の白黒タイルのなかに見つけたパンダくん、そして雛人形たちと、不意に現われたり消えたりする三つ編みの女の子――どっしりとした古い日本家屋には昼なお暗い場所が多く、多感な少女の想像力を良くも悪くも刺激するものであるが、そんないかにも子どもらしい想像力によって築き上げられる小さな世界の描かれ方は秀逸だ。人間以外のものの存在を、まるで生き物であるかのようにあつかっていくという意味では、梨木香歩の『りかさん』を髣髴とさせるものがあるが、本書のなかにあるのは、けっしてありえないおとぎ話ではなく、たとえば汲み取り式の便所の暗闇に対する恐怖などといった、私たちが小さい頃にたしかにとらえていた、子どもだからこその独自の世界という趣きがあり、それゆえに読者は、本書の世界にある種の懐かしさをリアルに感じとることになる。

 しかし、彼女の成長とともに世界は少しずつ変化していく。人形が勝手に動いたり喋ったりするような世界は、彼女の周囲から徐々に遠ざかり、代わりに彼女にとっての現実――これまではあまり見えてこなかった、より現実に近い世界の仕組みが見えてくるようになる。そしてそれは、ときに彼女にとって痛みとともに思い知らされるような現実でもある。子どもから大人へと成長していくにつれて、これまで見えていたものが見えなくなり、逆にそれまでは気がつかなかったことに、不意に気がつくようになる、という変化を成長ととらえるのはたやすいが、小さな世界からより大きな世界へと自身の認識が広がっていく、というのは、ときにその可能性の広さよりも、むしろ自分の居場所が拡散していくような不安を感じさせるものでもある。

 風美が主体となって語られていく本書において、彼女の世界は基本的に自身の家の中という、非常に限定されたところにとどめられている。そして傷つけられた彼女の心は、その限定された世界のなかでなかなか癒されることなく、成長してもなおわだかまりつづけていく。自分は何者なのか、この世界でたしかに自分のものだと言えるものは何なのか、生きるとは何か、死とはどういうものなのか。本書が「気づき」の物語であり、物語の過程においてさまざまな「気づき」があることは先に述べたが、そうした「気づき」は、けっして劇的な形で風美のもとに訪れるわけではない。だが、本書のラストで彼女がようやく気づくことになるある事は、彼女が小さい頃から見えていたはずの三つ編みの女の子――風美にとっては伯母に、そしてキクにとっては娘にあたる、夭逝した稲子であるという「気づき」と連動していることでもある。

 すでに死んでしまっているはずの人間がいて、その一方で、自身の生に何の価値も見出せずにいる風美がいる。このある種の対立構造は、風美の日本家屋への想像力の裏に隠れた形で、本書全体をとおしてひそかに保たれていくものだ。そしてそれは、何もかもが変化していくなかで、それでもなお変わらないものの象徴でもある。だからこそ、この構造への気づき、稲子と風美との関係性の「気づき」は、風美にとってはたしかに自分自身へとつながっていく、何よりも大切なものとなる。

 かつて大好きだった「かぐや姫」の物語が、「竹取物語」という作品で見たとき、「美人を鼻にかけた嫌な女」に思えてくる。それもまたひとつの「気づき」であることに間違いない。だが、そこからさらにかぐや姫を自分と同じひとりの人間としてとらえることができるようになったとき、はじめてそこに他の誰でもない、自分だけのかぐや姫のイメージが生まれてくることになる。移り変わっていくものと、それでも変わらないもの――本書を読むと、自分のなかにもあるであろうそんな要素について、あらためて考えてみたくなってくる。(2006.08.20)

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