【読売新聞社】
『卑弥呼』

久世光彦著 



 たとえば、男ならおそらく一度は経験したことがあると思うのだが、ふとした拍子に頭の中でエッチなことを想像してしまい、急に自分の愚息が立ってしまう、なんてことがある。自分の部屋でひとりでいるときなら、べつに股間を膨らませていようが構わないのだが、これが人が大勢歩いている大通りだったり、満員電車のなかだったり、あるいは憧れの女性といっしょにいるときだったりすると大変だ。体は正直、などとよく言うが、みんなが普通でいるなかで、自分ひとりだけが欲情しているのを知られるのはなんとも言えない恥ずかしさがあって、なんとかして愚息を収めようと深呼吸したり、不自然に手をズボンのポケットに突っ込んで、目立たないようにしたりと、いろいろ四苦八苦することになる。

 愛し合う男と女がベッドでひとつになる、などと書くと、いかにもロマンスの香り漂うシーンを思い起こしそうになるが、男女の営みの現実は、けっして物語のように美しいわけではない。女性のほうの気持ちはいまいちよくわからないが、している最中はただ夢中で、終わってしまうと妙に空しくて、そして、たとえばそのシーンを客観的に思い返すと、ずいぶんと滑稽なことをしているような気になるものだ。

 じっさい、人間のおこなうことなど、大部分は滑稽で、不器用で、カッコ悪いことなのだろうと思う。だが、だからこそ人間として生きつづけることは、いとおしくもある。本書『卑弥呼』に書かれているのは、そんな愛すべき男と女の、ちょっとエッチな、しかしすがすがしい恋の成就の物語なのだ。

 本書に登場するカオルとユウコは恋人どおしだ。それは間違いのない事実である。身長一七八センチ、体重六五キロ、フットボールで鍛えた引き締まった体の持ち主で、美男子というわけではないが、他の男と較べてもけっして見劣りはしないカオルと、男なら放っておけない抜群のスタイルと白い肌を持ち、着ているものも性格も垢抜けていて、ちょっとコケティッシュな雌猫のようなユウコは、端から見ればじつにお似合いのカップルであり、またふたりもお互いのことをこれ以上はない、というくらいに愛していた。
 何ひとつ問題なさそうな、カップルを絵に描いたような二人――だが、カオルとユウコの間には、とても重大な問題が横たわっていた。二人は恋人になってから、ただの一度もアレをしたことがなかったのだ。

 アレ、というのは、言うまでもなくSEXのことなのだが、本書のなかでは男女の営みのことを、けっして「SEX」と呼んだりはしない。そもそも、なぜアレのことをSEXと大文字で表現するようになったのか、という疑問が、本書にはあるようだ。英語圏の人たちが、たとえば電車の吊り広告やその手の雑誌の表紙に「SEX」と書かれてあるのを見たら、それはずいぶん奇異なものに映ることだろう。それと同じようにユウコは、自分の勤める出版社の雑誌特集に「全国でたぶん百を超えるアレの呼び名を統一しよう」などという、大胆不敵な企画を打ち上げ、「メンチョ」「メメジョ」「オソソ」「メメコ」など全国のアレの名称を大真面目に調べたり、アレの呼び名の取材のために北陸まで旅行したりするのだから、ある意味とても変わった女性である。そして、ユウコが執拗にアレのことに興味を示す背後には、やはりアレができない自分とカオルの関係があることは否めないだろう。

 カオルにアレの経験がまったくないわけではない。かつて、未知子という女性と一度アレをしたことがあるのだから、同性愛でないことは確かなのだが、なぜかユウコとアレをしようとすると、うまくいかない。中学のときに両親が離婚し、それ以来母親とは遭っていないというから、マザコンなわけでもない。いったい、何が原因なのか? 考えても二人にはわからない。したくないわけではない。だが、なぜかどんなに努力しても、できない。地球温暖化、激化する民族紛争、頻発する少年犯罪――今の世の中、大きな問題はそれこそ山のようにあるが、二人にとってはアレができるかどうかこそが重大事なのだ。そしてそれは、人間の本能に根ざす問題であるだけに、どことなく笑えてしまう。

 下手をしたら下品な猥談として終わってしまいそうな、扱いの難しいテーマであるにもかかわらず、本書は猥談特有の面白さ、滑稽さを色濃く残しながら、さらにその上に人間の生死の問題、男性と女性が交わって、新たな命をはぐくむことの意味、そして異性を好きになることの奇跡を表現することに成功した、ある意味で貴重な作品だと言うことができるだろう。じっさい、本書にはアレの名称調査ばかりでなく、ユウコが思いがけず盲腸になったことで体験する、恥ずかしくも情けない剃毛の話題で女三人が盛り上がったりするのだが、そこにはけっして淫靡な雰囲気はなく、むしろ開けっぴろげで大らかな性の姿、そのあり方があって、読んでいてかえって気持ちがいいくらいである。また、売れっ子のカメラマンで、五十を越えてなおプレイボーイを自称する、子どものようなカオルの父や、計算高くて賢い一面と、妙に若々しくて無鉄砲な一面をあわせもつ、スナック経営者のユウコの母など、個性的な登場人物も多い。
 なかでも、カオルの祖母である、今年八十になる小百合の存在は大きい。非常に教養があって、たくさんのことを知っていて、古今東西の小説を読み尽くしてきたおばあちゃんが、ユウコが入院していた病院の患者である柳生という老人に、こともあろうに恋に落ちてしまうのだから、ただただ脱帽である。そして、つくづく思うのだ。人間というのは、なんて不思議な生き物なのだろう、と。

 人はどうして面倒な方へいきたがるのだろう。岐れ道があって、左へいけばそよそよ春風が吹いて心地よいことがわかっているのに、なぜ暗くて不安な右の道をわざわざ選ぶのだろう。――(中略)――二人とも、馬鹿だと思う。笑ってしまうくらい馬鹿だと思う。そして、だから好きだと思う。

 今やコンビニエンスストアでヘアヌード写真集が買え、その気になれば子どもでもインターネットでアダルトサイトにアクセスできる時代において、男と女がアレをするのは、もはや特別なことではないのかもしれない。しかしその一方で、今もなお性に関する話題を嫌悪し、タブー視するような風潮があるのも事実だ。そして、そんな性についての偏った知識が、かえって人の心を歪めてしまう、ということも。変に規制したり隠そうとしたりするのではなく、男女の性について、そしてそこからはぐくまれる愛、生命について、私たちはもっと真面目に語る必要があるのではないか――カオルとユウコ、小百合と柳生さんの、ちょっと奇妙なカップルの行きついた先を考えると、それこそが本書に込められた最大のメッセージではないかと思えてくるのだ。

 松浦理英子はアブノーマルな性を題材にしながら、そこに精神的な心の繋がりを描こうとした。林真理子はひたすら計算高く、自分の肉体の快楽に忠実に生きる女性を登場人物にした。山田詠美はあくまで女性が主体となって勝ち取る快楽と愛を求めた。そんななか、本書は男女の営みの現実を見据えながらも、あえて愛の理想の形としてアレを昇華しようと試みた意欲作と言うことができるだろう(2000.11.09)

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