【東京創元社】
『夢の丘』

アーサー・マッケン著/平井呈一訳 

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 今さら言うまでもないことかもしれないが、小説とはフィクションを文字で書き表わしたものである。フィクションとは、現実の出来事ではないこと、要するに虚構ということであり、小説内で起こる出来事がどれだけリアリティに溢れたものであったとしても、それは私たちが生きる現実と混同すべきものではない。そういう意味では、小説というもの――さらに範囲を広げるなら詩やドキュメンタリーなどもふくめた文学というものは、それ自体には何の価値もないものでしかない。しかし、たとえば私たちが小説を読んでいるときに、ともするとどんな現実的な言葉よりも、そこに込められたメッセージを的確に受け取り、それを納得することができるという体験を考えたとき、私はあらためて言葉というもののもつ性質について、思いをめぐらせることになる。

 私たちがふだん何気なく用いている言葉とは、言ってみれば約束事である。たとえば、誰かが「私は猫を飼っている」と言ったときに、そこに虚構が発生する余地は、ほぼないと言っていいだろう。理由はいたって単純で、その言葉が本当か嘘かを確認するのが比較的容易だからである。だが、そんなことをわざわざ確認しなくても、私たちは誰かが「私は猫を飼っている」と言えば、たいていそれが真実であると判断する。その根底には、「猫」という言葉が「犬」や「山」や「石」を指し示しているわけではない、という約束事を信じるのと、基本的には同じものがある。

 私たちが小説やドキュメンタリーを読んだときに、たしかにそこにある世界に現実以上のリアリティーを感じ取ってしまうのは、そもそも言葉の性質が約束事によって成り立っているうえに、そこに書かれた事柄の真偽の確認が、少なくとも作品を読んでいるときには不可能であるからだ。つまり、たとえ小説がフィクションであっても、読者は私たちが生きている現実とは別の場所で、そこに書かれたことが真実であると判断してしまっている、ということである。

 では、「私たちが生きている現実とは別の場所」とは、いったいどこなのか――本書『夢の丘』という作品を読んだときに、真っ先に思い浮かんだのがこうした言葉に対する人間の判断の問題だった。というのも、本書に書かれていることをごく簡潔に要約してしまうなら、イギリスの片田舎で、貧乏な教会牧師の息子として生まれ育った青年ルシアン・テイラーがたどることになる妄想世界の遍歴ともいうべきものであり、最後にはどこまでまぎれもない現実だったのか、どこまでがルシアンの妄想の産物だったのかがわからないまま、永劫回帰していくような内容であるからである。

 空にはあたかも大きな溶鉱炉の扉をあけたときのような、すさまじい赤光があった。

 ルシアンはもともと歴史好きな少年で、荒廃した遺跡や古い記念碑といった過去の遺物から、昔の出来事に思いを馳せるのが好きな空想癖の強い性格をしていたが、ある日、故郷の村の山奥にある、人跡未踏の丘の上にそびえたつローマ人砦をこっそり訪れたのをきっかけに、その際限のない空想を小説という形にしようという欲望にとらわれるようになる。その妄想癖は、錬金術や近代隠秘学などの知識を得るにしたがってますますルシアンの精神を現実世界から乖離させていくことになるのだが、その背景には、彼自身の心のなかで育ててきた理想の世界と、現実に彼自身が生きていかなければならない世界との、あまりにも大きな落差があった。そういう意味で、彼が本書のなかで繰り広げる際限のない空想、そしてそこから生み出されていく小説は、ともするとルシアンの妄想世界を打ち崩そうとする現実との戦いの遍歴でもある。

 私も以前に小説を書いていた経験があるのでわかるのだが、たとえば、自分が見聞してきたある情景やそこから感じとった思いといったものを、できるだけ正確に言葉で表現し、相手に伝えようとするのは、ひどく骨の折れる作業であるばかりでなく、必ずしも成功するとはかぎらない、という意味では報われることの少ない作業でもある。自分の目でたしかに見、たしかに聞いたはずの事柄さえ、その真実を真実であるかのように相手に伝えるのは難しい、という現実――これは、たとえば地球温暖化やジャングルの砂漠化、オゾン層の破壊といった地球規模で起こっているはずの現実が、ときとして私たちにはなかなか現実のものとして実感のしにくい、いわばフィクションのようにリアリティーの感じられないという現実ともつながっているものだ。

 そんなふうに考えたとき、フィクションでありながら、まるでそこにもうひとつの世界が広がっているかのようなリアリティーを感じさせる文学というものの力を、まざまざと思い知ることになるのだが、ルシアンが言うところの「言葉の媒介によって、最高の感銘を与える美的芸術」である文学は、まるで錬金術の秘術のごとく、彼の妄想世界を現実世界に呼び起こすものとして作用していく。そこにあるのは、自分以外の人間が存在しない、それゆえに人間ドラマなど生まれる余地もない、かぎりなく個人的な妄執の世界だけであり、少なくともルシアンを主人公にしているかぎり、そこには現実と幻想の境目など何の意味ももたない。私たちは本書を読み進めていくうちに、まるで自身がルシアンと同化したかのように、現実の感覚を喪失していく過程をたどることになる。だが、その過程のなんと孤独な道のりであることか。

 言葉を生み出し、言葉によってコミュニケーションをはかるようになった私たち人間は、それゆえに、自分自身の世界と自分の外にある現実とのあいだに、言葉によって定義されたもうひとつの世界を抱え込むことを宿命づけられた生き物でもある。どんなに言葉を尽くしても、本当の気持ちが相手に伝えられるわけではなく、どれだけ真実を追い求めても、その真実はどこまでも不確定なものとして真偽の線をあいまいなものとしていく。もし私たちにとって、真実とはけっきょくのところ、きわめて個人的な意思で判断するものでしかない、とするなら、私たちはどこまでいっても自分自身の妄想世界から抜け出すことのできない、孤独な魂のゆらめきでしかない。そんな孤独をひたすら見据え、小説執筆という作業を通じて現実世界との戦いをつづけていったルシアンの行く末を、もしその勇気があるのであれば、ぜひ見届けてほしいものである。(2006.03.12)

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