【偕成社】
『ヒルベルという子がいた』

ペーター・ヘルトリング著/上田真而子訳 



 人にはそれぞれ個性というものがある。個性とは、言ってみればその人が見えている世界、まぎれもない自分が住んでいると信じている世界のことだ。こんなふうに書いてしまうと、まるで人間ひとりひとりに独自の世界が存在するかのように思われてしまうかもしれないが、それはあながち大きな間違いではない。たとえば、生まれつき盲目の人のとらえる世界は、健常者のとらえる世界とは異なる。私たちがあたり前だと思っているようなことであっても、彼らにとっては特別なことであったりすることは多い。ただ、健常者が圧倒的多数の世界であるがゆえに、私たちは健常者がとらえる世界が普通だと受け取り、そんな人間の作り出す社会も健常者の世界にあわせた形で築かれていく。世界の形というのは、しょせんそのようなものでしかないのだ。

 そんな世界のありようの脆弱さを描いた作品として、たとえば身障者がマジョリティーとなったため社会が彼らを中心に変質していく話を書いた藤本真伸の『はぁめるん』といった作品などがあるが、本来、個性というものに優劣などないし、見方を変えれば、身障者は健常者には見えないものをとらえ、感じられないものを感じとっている、と言うこともできる。問題なのは、そうした個性が大勢の人の生きる社会において大きく逸脱するものであるかどうか、あるいはその社会において有用とされるかどうか、という価値観で、その人の優劣まで測られてしまいがちだということである。

 ぼく、遠くへいきたい。遠くの遠くの、お日さまが作られる国へいきたいんだ。そこで、お日さまを空に、はめこむから、明るくなるんだろ、ね。

 今回紹介する本書のタイトルは、『ヒルベルという子がいた』という。そこから見えてくるのは、かつては「ヒルベルという子がいた」けれど、今はもういない、という意味だ。そして、そのヒルベルとはどんな子どもだったのか、というのが本書の骨子となる。

 ヒルベルは町はずれにある施設の子どもだ。浮浪児や親の手に負えない子どもたちが、次の行き先が決まるまで一時的に預けられるというその施設のなかで、彼はとくに「処置なし」とされてしまった問題児とされている。生まれるときに頭に負った傷が原因で、絶えず頭痛に悩まされるヒルベルは、じっさいは九歳なのに、六歳くらいにしか見えない、頭ばかりが大きいいびつな子どもで、それゆえに誰の引き取り手もないという状態だった。

 本来なら当然受けるべき親の愛情を充分に受けられないままに、親戚の家や施設、病院を転々としながら生きてきた子どもたち――だが、そんな不遇な子どもたちのなかにあってさえ「ほんとうに悪い子だよ」と言われてしまうヒルベルの存在は、それだけ強い独自の世界をもっているということになる。しょっちゅう施設を抜け出す、気難しくて癇癪もちだと恐れられる、何かひとつのことに気持ちを集中させることができない、できても長続きしない、洋服ダンスのなかや木の上に引きこもったまま出てこないなど、およそ他人との協調性という要素が抜け落ちてしまっている彼の言動は、他の人たちには理解しがたく、また苛立たせるものであることは想像に難くない。

 そんないっぽうで、ヒルベルは素晴らしい声をもっていて、その歌は多くの人を魅了する。だが、彼が歌いたくないときはけっして歌わないし、一度歌い始めると本人以外の誰もそれを止めることができない。本書はヒルベルというひとりの人間、私たちとは異なった世界をもち、その世界のなかでのみ生きている子どもの姿を、良い悪いの判断をはずしたうえで、あるがままに表現していこうとする。違う世界に生きるよそ者――それゆえに、ヒルベルは常に孤立しているし、そもそもヒルベルという名前自体、本当の呼び名ではないにもかかわらず、そのことを気にとめる様子もない。彼には他人とのかかわり、コミュニケーション、自分の意見や思うことを言葉にして相手に伝えるという能力が決定的に欠けているところがある。だが、それは彼自身の責任ではなく、彼のかかえる病気のせいなのだ。

 ばかだばかだ、といわれるかれの頭の中には、ほんとうは、あまりにもたくさんの考えや、喜びや、おそれがつまりすぎているので、おとなのいう、いわゆる《きちんと勉強する》ことなどできっこなかった。

 ヒルベルのような子どもが、およそ集団的な社会生活において不適応であり、その秩序を大きく乱す存在であることは言うまでもない。他の子どもたちが普通にできることができない、あたりまえのはずのことができないという彼らへの苛立ちは、私にも理解できることだ。だが、ではそのような子どもたちをどうすればいいのか、という明確な問題提起が、本書のなかにはある。そして本書のなかでは、マイヤー先生という若い女性の存在が、ヒルベルのような子どもたちであっても、けっして理解できないわけではないことをしめす重要な役割を負っている。

 だが、理解するということと社会に適応させること、学習させ教育していくこととは同義ではないし、そもそも自分以外の人間のことを完全に理解することなど、できはしない。ヒルベルにとっての「学習」は、私たちの考える学習とはまったく性質の異なるものなのだ。マイヤー先生はヒルベルのことが好きだったし、彼のことを時間をかけて理解しようと努めていた。ヒルベルにしても、彼女のいた施設はけっして居心地の悪いものではなかったし、最初こそ妙に親切なマイヤー先生を警戒していたが、けっして彼女のことが嫌いなわけではなかった。ヒルベルにとって、そこは満たされるはずの場所だった。にもかかわらず、彼はそこから出て行こうと決意してしまう。その真意は誰にもわからないし、彼自身もまた、誰かに言葉で伝えられるものでもなかった。そして、だからこそ本書を読んだ人たちは、ヒルベルという子のことを強い印象とともに心にとどめることになる。

 ヒルベルが私たちとは違う世界にいた、という認識――最近では彼のような人たちに明確な病名がつけられることで、多少なりとも彼らを理解するための土壌ができてきたと言えるのかもしれない。世界はけっしてひとつの形を成しているわけではなく、人によって多様である、という事実に対して、私たちの生きる人間社会がどのように変化していくべきなのか、そして他ならぬ私たち読者ひとりひとりが、そうした事実とどのように向き合っていくべきなのか。それは、べつにヒルベルのような子どもにかぎったことではなく、究極的には人と人との関係全般について言える大きな問題である。はたして、今という時代にいる私たちは、ヒルベルという子を受け入れるだけのものを、本当にもっていると言えるのだろうか。(2008.11.22)

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