【毎日新聞社】
『国家、人間あるいは狂気についてのノート』

辺見庸著 



 ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』によれば、中世ヨーロッパでは、狂人の存在は社会的に認められていたとされている。それが国家権力によって「忌むべきもの」として収容所に隔離され、さらには精神医学によって「治療すべき病理」扱いされることで、人々は狂人と直接的に接する機会を失い、また狂人たちも沈黙を強いられることになった、ということである。もっとも、このあたりの言説は私自身の理解というよりは、内田樹の『寝ながら学べる構造主義』の受け売りでしかないのだが、ここで重要なのは、かつては社会的な役割を与えられていたはずの狂人――より厳密には狂人を狂人たらしめている「狂気」というものが、人々の視線からたくみに隠されるようになったことで、私たちはそもそも「狂気」とはどのようなものか、その本質を知ることすらできなくなった世界を生きているのではないか、ということである。

 あくまで過程の話でしかないが、もしこの世に自分ひとりしか人間が存在しなかったとしたら、おそらくその人間にとって自他の境界はそもそも存在しない。人は自分以外の誰かと比較することによって、はじめてその人と自分との共通点や違う部分が見えてくる。それが自分というものを認識するための第一歩となるわけだが、同じようなことが「狂気」に対しても言えるはずである。もちろん、「狂気」など社会にとっては害でしかない、だからそんなものはできるだけ隔離して、人々の目から遠ざけておくべきなのだ、という意見が出てくるのはある意味で必然である。だが、たとえどのような手段をもって「狂気」を遠ざけることができたとしても、「狂気」そのものはけっしてこの世から消え去るわけではない。

 そしてここからが真に恐ろしいことなのだが、「狂気」というものから遠ざけられた私たちは、他ならぬ自分自身がどの程度の「狂気」のなかで生きているのか、もはや比較するすべを持てなくなっているのではないか、という推論が成立する。見えなくなったからといって、消滅したわけではない。それをあたかも消えてなくなった、あるいはもともとそんなものは存在しないと錯覚することほど恐ろしいものはない。なんとなれば、「狂気」の比較対象が存在しない世界では、誰もかれもが狂ってしまえばそれこそが「正気」ということになってしまうからだ。本書『国家、人間あるいは狂気についてのノート』には、まさに「狂気」という単語が冠されているが、著者の辺見庸は、おそらくこの見えない「狂気」について、今もっとも意識している人だと言うことができる。

 むしろ狂者の目で見たほうが世界というものの実相が見えてくる。はたして非狂者の目で世界を見ることができるのか。つまり世界は狂っていないということを前提にするような目がありうるのかどうか。整合的に世界を説明できるのかどうか。そこに僕はとんでもない不信感をもってしまった以上、詩でも書くしかない。

 本書は「辺見庸コレクション」と表されたシリーズの四作目に当たる著作集であり、エッセイや回顧録、あるいは詩や対談記録といった諸々のものが収められているが、そこには常に、物事の本質を見極めようという強固な視点が存在する。それは逆に言えば、著者にとって現代という時代は――あるいは過去においてもそうだったのかもしれないが――物事の本質がこのうえなく見えにくくなっているということであり、また世の人々がその見えにくさを享受しているということでもある。いや、「享受」しているという意識があればまだいいほうだろう。じっさいには、本質がたくみに隠されているという事実そのものを人々が意識しなくなっている、と少なくとも著者は感じとっている。

 そのことを思い知らされるエピソードとして、著者が客員の教員として私立大学の授業を受け持っていた頃の話がある。そのはじめての講義の日に、大学構内にあった「本学構内での反社会的行動を禁じる」という文面に唖然とし、その意味するところを学生たちにぶつけてみたところ、彼らはまるで痛覚がないかのように何の反応も示すことがなかった、というものだ。著者の言葉はどこにもぶつからず、また吸い込まれることもないまま、ただ嫌な残響をはりつかせただけという状況に、このうえない空虚さを感じとったと著者は語る。言葉はあるのにその言葉から何の意味も見いだすことができない。同じように、学生たちはたしかに存在するのに、そこに彼らがまぎれもなく生きているという感じが伝わってこないという状況――だが、自分以外の誰もがそのことに気がついていない、あるいは気づいていないふりをしているように見える世界を前にして、はたして狂っているのは世界なのか、あるいは自分なのかという問いかけが生じたとすれば、それはいかにも著者らしい。

 ここでいう私の「著者」らしい、というのは、かつて原発事故を起こしたチェルノブイリをはじめとする世界各地をまわり、苛烈な「食」への交わりを書いた『もの食う人々』の著者をイメージしたものであるが、そのイメージは本書においても同様のものである。言葉が力を失い、金で金を買うようなマネーゲームが横行し、無限のコピーアンドペーストを繰り返していくかのようなネット情報が氾濫する今の世のなかで、何がその本質をなしているのかという問いかけを続ける著者の姿勢は、ある意味で痛ましいものだ。なぜなら、おそらく著者の求める「本質」なるものなど、じつはこの世には存在しないことを、著者はもちろん、私たちも頭のどこかで理解しているところがあるからだ。そして、物事の本質など、知っていようといなかろうと、とりあえずの「今」を生きるうえで何の問題もない、ように見える。むしろそんな「本質」など、知らないままでいたほうが幸せなのかもしれない、というムードさえある。というより、自分たちが「本質」を知らないままである、ということすら、日常を生きる私たちは意識することはない。

 著者の言葉は、というよりは、著者という存在にともなう言動は、そんな私たちが無意識に遮断してきたものを目の前に引きずり出す何かがある。あるときはメディアに対して、あるときは日本と中国との関係に対して、あるときは歴史認識に対して、あるときは自殺や死刑制度に対して、著者はときに激しい感情をむき出しにする。おそらく私をはじめとする多くの読者たちが、その怒りに対して、先の学生のごとく無感覚なままではないかと思われる。だが、少なくとも著者がかかえるある種の「狂気」の片鱗くらいは感じられるはずだ。いったい著者は、何をそこまで憤っているのか。あるいは著者は、何をそこまで深刻ぶっているのか。

 その憤りの一端をうかがえるエピソードのひとつとして、著者が北京オリンピックのさいに立ち寄った抗日戦争記念館の話がある。「日本軍の暴虐非道をしめす写真の、酸鼻のきわみ」をまのあたりにして、およそ分析的思考を打ち砕かれてしまった著者が思い知らされた以下のような認識は、そうした資料をまぎれもない生のものとして自身に受け入れるだけの覚悟がなければ、ただの空虚な言葉でしかなくなるところである。

 歴史とは、文言である以上に、主観的情念であり、代をつぐ映像的記憶である。あらためてそう思いしらされた。

 著者の激烈な視点において、私たちの生きるこの世界は数多くの空虚な言葉に満ちている。そして私たちは、その空虚さにほとんど気がついていない、ということを本書はこのうえなく指し示している。それをあくまで著者の主観でしかない、と無視することが、どこか漠然と、世界がおかしな方向に進みつつあるように感じはじめている私にはどうしてもできない。世の中の「狂気」を、ほかならぬ狂気の視点でとらえることでその本質に迫ろうとする著者の言葉は、私たちにとってはこのうえなく重い。(2014.01.27)

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