【実業之日本社】
『復活、へび女』

池上永一著 



 池上永一が描く「沖縄」には、まさにファンタジーと言ってもおかしくない独特の世界観がその根底に流れており、そこに暮らす人々も含めて数多くの魅力と不思議に溢れている。ユタと呼ばれる巫女が活躍し、マブイと呼ばれる魂が本人の意志とは関係なく勝手なふるまいをし、妖怪や幽霊などが日常のなかにとけ込み、現世と霊界の境すらあいまいな世界のなかで、亜熱帯特有の気候ゆえに陽気で、食欲や睡眠欲、性欲といった欲望に寛容な住民たちがのんびりと暮らし、婆さんたちは老いてますます元気に遊びまわっている――『バガージマヌパナス』や『風車祭(カジマヤー)』などで展開されていた「沖縄」世界は、まさに真夏の太陽の陽射しのような明るさ、陽気さに包まれており、読み手の笑いを誘う場面も多く、全体として楽しい雰囲気に満ちたものであった。だがその一方で、生まれ育った小さな島から飛び出して都会へと流れていく若者の姿や、先祖崇拝などに結びつく古くからの伝統や習慣が、人々の生活のなかから失われつつある現実にも鋭く触れていた事実を忘れるわけにはいかない。

 池上永一と「沖縄」世界とは、分かちがたく結びついている。その事実に間違いはないだろう。だが、仮に著者から「沖縄」世界を切り離すことができるとしたら、後に残っているのははたして何なのか。あるいはそれこそが、本当に著者が描きたかったものではないだろうか――本書『復活、へび女』は、いみじくも「沖縄」世界の上に成り立つ物語と、「沖縄」から切り離された後に残る物語の、ふたつの可能性を示唆するものであると言うことができる。というのも、本書を構成する八つの短編のうち、最初の四篇は沖縄を舞台にした物語、後の四篇は都会を舞台にした物語であるからだ。

 とは言うものの、実のところ、本書に収められている短編は、その舞台こそ違うが、日常にまぎれこむ不思議な出来事――それは、少し怖いものであったり、思わず笑いをさそうようなものだったり、あるいは人の心を打つ感動的なものだったりと、さまざまではあるが――をとり扱ったものである、という点ではほぼ共通している。そういう意味では、同じく日常のなかでふと感じる不安や違和感を描いた、原田宗典の『0をつなぐ』にも似たものがあるかもしれない。ただ、『0をつなぐ』が基本的に、人の心がもたらす奇妙な感覚に重点をおいて構成されているのに対して、本書では、人の心うんぬんといったものをすでに超越した何かが存在し、そこからもたらされる力に登場人物が巻きこまれてしまう、というシチュエーションが基本になっていると言うことができるだろう。そして、そのシチュエーションが「沖縄」を舞台にすれば、その土地の伝説風土――ユタやマブイ、幽霊、生命力あふれる婆さんといったものと結びつき、東京を舞台にすれば、都市伝説的な雰囲気と結びつくことになる。

 たとえば「失踪する夜」には、ピッチンヤマ御嶽と呼ばれる、神が宿るとされる祠が登場するが、この祠、昔から人を消してしまうという神隠しの伝説をたたえた、不思議な場所でもある。その噂の真偽のほどはともかく、その土地の人々の深い信仰の対象となっているその聖域は、夜になると、昼間は普通に働いている婆さんたちを歓楽街で働く水商売の女へと変身させるためにその力を振るい、また伝説の娼婦ムーンライトレディの姿を人々の心に焼きつける。そう、この作品においては登場人物みんながみんな、ピッチンヤマ御嶽という「超越した何か」の力に影響されながら物語が進行する、と言ってもいいだろう。
 また「復活、へび女」では文字どおり、へび女が「超越した何か」の役割を演じることになる。ネタバレになるのであまり多くは語らないが、知らないうちに部屋の中に入り込み、添い寝をしたという形跡だけを残していく、という不思議な体験をするある大学生は、次第にその見えない女性に心を奪われていくようになってしまうのである。

 「超越した何か」などと言うと、実にあいまいな表現ではあるが、これはある意味「想像力」と言い換えても通じるかもしれない。著者が描く「沖縄」世界には、ユタや拝み、マブイといった概念が定着した、ある種「不思議があたりまえ」という土壌があった。それゆえに、たとえば「マブイの行方」のように、七つものマブイを落とし、「このままだと死ぬ」とユタに言われても、優子にはそのことに対する切迫感があまり感じられないし、むしろマブイを探しているのにいつのまにか豚の頭やアイスキャンディーを買ってしまうところなどは、こっけいでさえある。このこっけいさ、おかしさは、「不思議があたりまえ」という「沖縄」世界独特のものである。

 だが、ひとたび舞台が「沖縄」世界から都会へと移ってしまうと、「超越した何か」を支えていた土壌は失われ、笑いはむしろ不安や怖れといった感覚へと変化する。「前世迷宮」などは、その典型的な例だと言えるだろう。それは、池上永一の小説にとっては大きな痛手となりかねない、重大な問題ではないかと私などは思うのだが、著者はあえて「沖縄」世界を切り離すことで、「超越した何か」の存在を、純粋な「想像力」に転化しようとした。それがもっとも成功したのは、「木になる花」であろう。この短編のなかには、純粋な想像力だからこそもたらされる非常に美しい物語が展開されているのだ。

 池上永一と「沖縄」世界は、いまだ切っても切れない関係にあることは否定できない。だが、それを切り離したときに垣間見える著者の豊かな想像力には、多くの可能性が秘められていることもまた否定できない。本書『復活、へび女』に、読者はどのような可能性を見いだすことになるのだろうか。(2000.05.30)

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