【文藝春秋】
『蛇を踏む』

川上弘美著 
第115回芥川賞受賞作 



 私たち人間は、おもに言葉を用いてお互いにコミュニケーションをはかったり、情報を伝えあったりする生き物である。そのことを否定する者はおそらくいないだろうが、私たちにとってひとつやっかいな問題なのは、言葉がコミュニケーションのための道具としては、不完全なものだ、ということである。

 人間の社会が時代とともに複雑化するにつれて、言葉もまた、さまざまな意味合いを帯び、また新しい概念を固定させるために人々は新しい言葉を生み出していったが、より多くの情報を、より正確に伝えるために複雑化した言葉は、当然のことながら、それを用いる人たちとのあいだでのギャップを生じさせることにもなる。ある単語、あるいは文節に対して、個々の人間が抱くイメージのギャップ――そのギャップが大きければ大きいほど、伝えたいと思う事柄は歪み、正しいコミュニケーションや情報の伝達は成立しにくくなってしまう。

 ますます複雑化していく社会のなかで、氾濫する情報になかば溺れかかっている現代の私たちにとって、言葉とはいったい何なのか、そして言葉が私たちに何をもたらしてくれるのか。そういった観点から、あらためて川上弘美という作家が生み出す作品を見直したとき、不完全なコミュニケーションの道具である言葉の、不完全であるがゆえのイメージのギャップを、逆にイメージの奔流として、現実にはありえないなんとも奇妙で不可思議な世界の構築に利用しよう、という意図が見えてくるように思える。

 本書『蛇を踏む』は、表題作のほかに2篇を収めた短編集であるが、どの作品にも共通して言えるのは、言葉がもつ現実の意味に揺さぶりをかけることによって、現実世界とよく似てはいるが、じつは非現実的な世界の物語を書こうとしている点であろう。『蛇を踏む』では、冒頭でいきなり蛇が踏まれ、その蛇が人間の女性になって踏んだ人の家に住み着いてしまうという話であるし、『消える』では、冒頭でいきなり結婚を間近にひかえた上の兄が消えてしまう。読者は当然のことながら、そうした物語の裏に何が隠されているのか、深読みしようとする。たとえば、蛇はなにか呪術的な力で人間に変身したのだとか、上の兄がなんらかの理由で家から失踪してしまったのだ、とかいう理由があるはずだとふつうは思い込むし、物語にはそうした理由づけがあってしかるべきだと私たちは考えている。だが、本書の物語には、まさに文字どおりの意味しか存在しないのだ。蛇が人間のかたちになれば、文字どおりそうなったのであり、兄が消えたのであれば、文字どおり消えたのである。著者が描く世界において、言葉とは文字どおりの言葉の意味しかもちえないものなのである。

 本書の「あとがき」において、著者は自分が書く小説を「うそばなし」だと称している。うそばなし――よくよく考えてみれば、小説が描く世界は、そもそも虚構が前提のものであるはずなのに、それをあえて「うそばなし」と称するのも不思議な話ではある。だが、世の中の多くの小説が、虚構の世界を現実のそれに近づけ、あるいは現実世界に代わるもうひとつの現実として再構築しようと、できうるかぎりのリアリティーを追求していこうとしているなか、誰が読んでもリアリティーのない、言うなれば「嘘っぽい」とわかってしまう世界を構築していく本書がそもそもおこなっているのが、ただ言葉のもつ意味を単純化することであるというのも、また不思議な感じがする。

 こういう「うそばなし」の感覚は、あるいは詩の世界と通じるものがあるかもしれない。現実にはありえない言葉どおしを組み合わせることで、それまでにない新しい言葉のイメージを紡ぎ出していく詩の世界は、ある意味物語とは対極に位置するものでもあるが、そうした感覚に一番近いのが『惜夜記(あたらよき)』という作品で、これは「夜」をキーワードに、著者が脈絡もなく頭で想像していったイメージを書き連ねた、という表現が一番しっくりとくるものがある。

 コミュニケーションの道具としては不完全な言葉が必然的に抱え込むことになった、さまざまなイメージ――ますます複雑化していく現実の世界に生きる私たちにとって、著者の「うそばなし」の世界は、たしかにリアリティーのない、嘘っぽい世界に見えるかもしれない。だが、世の中があまりに複雑になりすぎることによって、もっとも大切な本質がしばしば見落とされてしまうことがあるように、言葉もまた、複雑化することで、その本質が見失われようとしている、と感じるのは、おそらく私だけではないはずだ。私は同じ著者の『物語が、始まる』のなかで、「これらの小説にこめたものの真実はわからない」と書いたが、もしかしたらそれは、言葉が誕生したときに、あるいはそれ以前から本来持っていたはずのもっとも本質的なもの――余計な比喩やまわりくどい言い回しといったものをいっさい取り除いたあとに残る、単純にして純粋な言葉の意味なのではないか、とふと思うのである。言葉が文字どおりの言葉の意味しかもちえない、著者の想像する世界は、私たち人間にとってはたしかに非現実的な世界かもしれないが、言葉そのものにとっては、まぎれもない真実の世界として機能しているのではないか、と。

 言葉がもっとも純粋な姿となって立ち現れてくる非現実的な世界――そこにはたしかに私たちが感じるところのリアリティーなどかけらもない世界だが、だからこそ、別な一面における真実も存在しているはずである。たまには、そのような世界の物語に触れてみるのも一興であろう。(2003.02.22)

ホームへ