【講談社】
『ヘヴン』

川上未映子著 



 因果関係というものを、ふと考えることがある。原因と結果の関係、つまり、何か起こった事柄に対して、かならずそうなった原因があるはずだという考えは、いっけんすると非常にシンプルでわかりやすいものではあるが、その考えを突きつめていくと、因果関係のわかりやすさの裏側には、かならず何らかの基準や条件がともなうものであることに気づく。

 たとえば、私が手にしていたコップを落として割ったとしよう。コップが割れた原因は、私がそのコップを落としたから、というのが因果関係である。ここだけで完結するのであればじつにシンプルなものの見方なのだが、そこに責任という概念が入り込むと、とたんに事態は複雑なものとなってしまう。もちろん、私がコップを割ったことの責任を負うことに納得すれば、それですべてが丸く収まるのだが、もし納得しなかった場合、私は自分の起こした事柄に対して、同じように因果関係を適用することになる。連日の仕事のハードさで、意識が散漫になっていた、そうなったのも、上司が嫌な仕事を自分に押しつけるからだ、いや、そもそも自分は今の部署には向いていないのだ――そんなふうに原因と結果を際限なく追求していくと、そもそも何が原因なのかがかぎりなく曖昧になっていく。

 けっきょくのところ、因果関係というのは、物事のとらえ方のほんの一側面にすぎない。そこにあるのは、因果関係の基準や条件をどのように設定するかの主観でしかなく、そうである以上、物事の因果関係などどうにでも変わってしまうし、ましてやそこに真理などあるはずもない。だが同時に、だれかが何らかの責任を負わないかぎり、納得がいかないという心理もある。原因がかぎりなく曖昧であるのなら、その因果関係を無理やりにでも生み出していくしかない。それがどれだけリアルなものであるかは、当人にとっては意味がない。あくまでその人の主観にとって、見出された因果関係が納得のいくものであるかぎり、それがその人にとっての真実であり、真理でもあるのだ。

「それが神様でなくてもいいけど、そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなすぎるもの。――(中略)――どうしてこんな馬鹿みたいなことが起こってしまうのか、わたしには理解できないもの。――」

 本書『ヘヴン』で一人称の語り手として登場する中学生の「僕」は、クラスメイトから「ロンパリ」と呼ばれ、いじめの対象にされつづけている。意味のない命令を強制されたり、倒されたり蹴られたり――そんな最悪の学校生活のなかで、唯一救いとなっているのが、同じクラスメイトの女の子であるコジマの存在だった。彼女もまた、その貧乏臭い身なりのせいでクラスの女子からいじめを受けている女の子だが、ひそかに手紙のやりとりをつづけてくれる彼女だけが、「僕」をまともな人間として見てくれているという確信があった。

 息の詰まるような陰惨ないじめの渦中にある「僕」とコジマとの関係は、本書のなかにおいてほぼ唯一、人と人との関係が成立しているものであり、いじめの非人間的行為がエスカレートすればするほど、そんなささやかなふたりの関係が際立ってくるという構造が成立しているのだが、同時のふたりの関係はあまりにあやうくて、まるで壊れてしまうことが前提であるかのような雰囲気さえあるのも事実である。しかしながら、そんなふたりの関係のはかなさをお涙頂戴のヒューマンドラマとして演じさせることが、本書の本質だととらえてしまうのは、あまりにもお気楽な考えだと言わざるをえない。本書には、たとえば「僕」とコジマが善人であり、二ノ宮をはじめとするいじめを行なう側が悪人であるという単純な、しかし読者が安心して読んでいけるような構造を、あえて外しているようなところがあり、そういう意味で本書は良くも悪くもいやらしい作品だと言える。

 いじめの構造が成立するもっとも単純な仕組みは、自分と相手が対等な関係、つまり自分と同じ人間であるという想像力の欠如である。それゆえに、いじめという行為のなかに、まともな人間どうしの会話は成立していない。それは常に一方的な言葉の投げつけであったり、あるいは相手の言葉を無視するといったことであり、また意図的にそうすることでいじめを増長したりする。だが、そうした非常にわかりやすいディスコミュニケーションの対比の対象として、「僕」とコジマとの関係をとらえたときに、はたして本当の意味でのコミュニケーション、対等な人間どうしの会話が、ふたりのあいだにそもそも成立していたのか、という疑問がふと頭をよぎることになる。

 ふたりの関係の発端は、コジマからの一方的な言葉の投げつけだ。「僕」の筆箱や机の裏に、こっそり忍ばせたメモ書きの言葉――「僕」が当初、その短い手紙を新手の嫌がらせだととらえてしまったのは、それが一方通行なものだったからに他ならない。その後、ふたりはこっそりと会っては直接言葉を交わすようになるのだが、話題が自分たちの受けているいじめのことに触れるようになったあたりから、お互いの言葉が少しずつ噛みあわなくなっていく。それは、コジマが「僕」という人間に対して求めていたものと、「僕」がコジマという人間に対して求めていたものの差異が、徐々に明らかになっていく過程と一致している。

 ふたりはともにクラスでいじめの対象となっているが、その決定的な違いが、「僕」の斜視という身体的特徴と、コジマの汚れた身なりという、いじめの要因となったであろう部分にある。「僕」の斜視は生まれつきのもので、どうにもならないものだという思いがあるのに対して、コジマの服装については、その気にさえなればいつでも改善可能なものである。つまり、コジマがそうした格好をつづけるには、それなりに強い意思を必要とするものであり、それがふたりの決定的な違いということにもなる。そして彼女は、その意思をより強固なものとするために、自分が受けているいじめの意味を求め、それをなんとか言葉で表現しようと努力する。だが、言うまでもなくその努力は、「僕」にとっては理解の範囲外にあるものだ。

 「僕」の意思は、斜視である彼が見る世界のように平坦で、とらえどころのないものである。著者は本書において、人々が発する「言葉」について、そうした曖昧でとらえどころのないものとして捉えようとしているふしがある。肉体が感じとる感覚との対比としての「言葉」――それは、たしかに人間だけにあたえられたコミュニケーションの道具でありながら、この道具には決定的な欠陥があって、本当に大切なものや物事の真実を伝えることができない、という思いが、本書全体を貫いている。だからこそ「僕」は、次第に自分から乖離していくコジマの人間性を再認識するために、彼女をオカズにマスターベーションをするという手段をとらざるをえなくなったりする。

 本書はたしかにいじめをテーマとしているが、その根底にあるのは、言葉によるコミュニケーションの限界と、それにともなう人と人との関係性の限界である。そもそも言葉による意思の伝達に限界があり、けっきょくのところ人は個々の主観のなかに他人を引きずりこむか、引きずり込まれるかの関係しか成り立ち得ないとするなら、そもそも人として生きることにどのような意味があるのだろうか。そういう意味においても、本書は読者の心をかぎりなくざわつかせ、落ち着かない気分にさせるものがある。(2010.06.20)

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