【講談社】
『波に座る男たち』

梶尾真治著 



 たしか今年(2007年)の2月ごろに、どこかの過激な環境保護団体が、日本の調査捕鯨船への妨害活動で日本人乗組員に軽傷を負わせたというニュースが載ったのを覚えているが、仮にも人間が乗っている船を相手に、捕鯨活動阻止のためには体当たりも辞さないというその環境保護団体の発言が、どこか本末転倒な感じを受けてしまうのは、そもそも絶滅危惧種といわれる鯨の保護のための団体であるにもかかわらず、その一方で同じ人間相手に、ともすると血で血を洗うような過激な行動をとっているという矛盾があらわになっているからに他ならない。鯨の命を救うために人間の命を犠牲にしていいのか、という矛盾――それはたとえば、犯罪被害者が「復讐」と称して加害者を攻撃することで、自身がもっとも嫌っていたはずの犯罪加害者になってしまうという矛盾とよく似ている。

 ある情報には、かならずその情報の発信者の意図がこめられている、というのはよく言われることであるが、「環境保護」「絶滅危惧種の保護」を謳う団体の主張はたしかに間違ってはいないし、おおいに推進してほしいとも思うものの、同時にそうした団体の活動に賛同する国や組織のなかに、どれほどの国際的な利害関係が絡んでいるのだろうか、と思わずにはいられないような事柄も、しばしば垣間見えたりする。「鯨を捕るのはかわいそう」「じゃあ牛や豚はかわいそうじゃないのか」という水かけ論は、けっきょくどちらも人間のエゴでしかないし、おそらく第三者的な視点でとらえれば、どちらもおそろしく愚かなことのように見えてしまうのではないだろうか。

 本書『波に座る男たち』という、一風変わったタイトルは、「波座師」という近海の鯨捕りのことを指す言葉から来ている。つまり、本書は捕鯨をテーマとした物語、ということになるのだが、変わっているのは何もタイトルだけではない。なにせ、捕鯨に挑戦する男たちというのが、地方のヤクザたちなのだから。

 九州のとある地方都市で料理店「あばれぐい」を経営していた麓浩司は、追いつめられていた。別れた妻のためにまとまった金が必要となり、借金をして揃えたまではよかったが、あてにしていた売掛が滞ってしまい、返すに返せない状態に陥ってしまった。しかも、借りた相手が運悪く闇金融で、なんだかんだで利子の積もった借金が二百万。取立てにきた大場会のヤクザを前に、彼の命は風前の灯……のはずだったのだが、ひょんなことからその大場会でまかないをつくることになった麓は、ヤクザとしてしのぎを削ってきた彼らもまた窮地に追い込まれているという事実を知ることになる。

 義理や人情といった昔気質な任侠道を貫く大場会は、その潔癖さゆえに麻薬や売春といったものをシノギとすることを許さない暴力団だったが、ヤクザといえども人の子、何らかの方法で稼ぎを出していかなければ組を存続させることはできず、組員は減少の一途をたどり、新興勢力の浦田組にも太刀打ちできない状態にあった。別口の借金のカタに手に入れたのが、もともと捕鯨船だった漁船だったこと、そして麓のつくった料理がたまたま料理店の材料として仕入れてきた鯨を使ったものだったこと――こうした偶然がかさなった結果、大場会長はヤクザをやめて非合法的に鯨をとって稼ぐ、という選択を決意させることになる。

 そうだ。わしたちが、昔、食べていたのは、シロナガスやザトウだ。わしだってそんな名前は知っとるぞ。ところが、今は捕獲禁止だ。国と国とでそんなルール作って日本の食文化を廃れさすわけにはいかねぇ。国が伝統守れねぇなら、わしたちが世の為、人の為守ってやらなくてどうする。

 とまあこんな感じで、ヤクザだった面々が捕鯨のために海に繰り出していく、というストーリーが展開していくことになるのだが、当然のことながらそれまで「マグロ漁船に乗せる」という脅し文句は使っていても、じっさいに漁船に乗ったことのある者など誰ひとりいない組員ばかり、そう簡単に鯨が捕まえられるはずがない。そもそもこの大場会という暴力団自体、会長が怪奇現象に悩まされていたり、時速五十キロ以上のスピードが駄目な組員や、とんだ馬鹿ップルぶりを見せる純情な若頭など、ヤクザというにはどことなくユーモラスで頼りない連中だったりするのだが、もともと「波座師」の娘として育てられた経験をもつ若頭の恋人玲奈や、戦後に凄腕のスナイパーとして裏社会ではその名を轟かせていた「パッションF」こと吉田源一郎といった助っ人の力もあって、どうにかこうにか捕鯨の段取りが整っていく。だが、彼らの敵は鯨ではなく、同じく非合法で鯨をとっていた香港マフィアや、殺人をも辞さない過激な環境保護団体「クリーンアース」といった面々だった……。

 物語は麓がかかわることになる大場会を主体としたパートと、「クリーンアース」の実行部隊である退役軍分のウィリー・ケンドールを主体とするパートのふたつがあり、交互に入れ替わりながら物語が進行していくのだが、こうして主張が相反し、いずれは衝突することになるふたつの団体を追うことで、お互いの主張がけっして間違っているわけではないこと、どちらも自身の行動が正義だと信じているという事実が浮き彫りになっていく。廃れゆく日本の文化を守るという大場会長のスタンスも、地球の自然を保護するというケンドールの主張も、いずれもその言葉だけをとらえるならば美しいものだ。にもかかわらず、鯨という哺乳類のことになると、お互いがどうしようもなく衝突してしまうという事実を考えたとき、何か根本のところで間違っているのではないか、というしこりを感じずにはいられなくなる。

 このあたりのしこりや矛盾については、じつのところ物語のいたるところに仕掛けられている。密猟者たちを平気で手にかけるいっぽう、ひとり息子がかかえる難病のために奮闘するケンドールや、せっかく鯨を見つけても、それらが家族もちであるという理由で狩りを見送ってしまう大場会長など、ただ単に環境保護や捕鯨という目的のため、合理的な行動をとれずにいる彼らの姿は、鯨のために人間どおしが争うという構図と同じくらい割り切れないものがあるのだが、そのいっぽうで私たち読者は、そんな彼らの姿をまのあたりにすることで、彼らがまぎれもない人間であるということを思い知ることになる。けっして合理的な生き物ではない、だがそれゆえに、どんな可能性もけっしてゼロではないという人間の資質を信じたくなるようなものが、本書にはたしかにある。そしてその中心にいるのが、他ならぬ麓という登場人物である。

 麓はもともと料理人であり、本書における海洋冒険や敵対組織との戦闘においてはほとんど出番のない存在なのだが、本書のテーマという点ではけっして欠かすことのできない位置にいる。というのも、彼の料理人としての腕は、人間の食という、お互いの主張や正義といったものよりもより本能的な部分に影響をおよぼすものであるからだ。どんな主義主張があれ、人間もまた生き物である以上、何かを食べなければ生きてはいけない。本書のラストへといたる展開については、かなり以前からその形が予測できてしまうという欠点はあるが、著者が人間どおしの対立、それも、どちらも自身が正義と信じて譲らないような対立を超えるものの象徴として、麓という人物を用意したという点では、おおいに評価できるものがある。

 ヤクザが捕鯨という、いっけんするとギャグのような物語展開のなかにひそむ、人間としての普遍的なテーマを内包した本書をぜひ手にとってほしい。(2007.11.17)

ホームへ