【新潮社】
『早く昔になればいい』

久世光彦著 



 なぜ「早く昔になればいい」なのだろう。本屋でこの文庫本を目にしたとき、私の頭にふと、そんな疑問が浮かんだ。「早く大人になればいい」とか「早く明日になればいい」とかいう言葉はよく目にするし、文法的にも正しいが、「早く昔になればいい」というのは、時間が過去から未来へと流れるという前提がある以上、なんとも変な言葉だ。

 本書『早く昔になればいい』のなかで、一人称の「私」の意識は、しきりに過去の思い出へと飛んでいく。そこには、しーちゃんと呼ばれていた、大きな屋敷の美しい狂女の姿がある。十四歳だったあの日、道路の真中でいきなり用をたしたり、好きだと言われれば誰にでも体を開いたりする狂ったしーちゃんを、「私」は同年代の仲間とともに襲ったことがあった。しーちゃんはしばらくして父無し子を生んだ後、一年足らずで死んでしまい、「私」もその町を離れることになるのだが、それから四十年も経ったある日、ふとしたことからその町を訪れることになった「私」は、自分とそっくりの男の姿を見かけることになる。

 なんとも奇妙なことなのだが、本書でもっとも重要な人物は、四十年も前に死んでしまったしーちゃんなのである。物語は終始、しーちゃんを中心にして動いていく。しばらく町に滞在することになった「私」は、かつて一緒にしーちゃんを襲った友人の二人が、しーちゃんみたいな狂女をかこって抱いているのを目撃し、また、通夜も葬式もせず、しーちゃんの存在を忘れようとしていたはずのその屋敷のなかに、なぜかしーちゃんの着物が飾られてあったり、カレンダーが四十年前のものであったりするのを見る。まるで、しーちゃんの生きていた頃を忘れまいとしているかのような町のなかで、「私」のしーちゃんに対する想いはますます強くなり、思い出のなかのしーちゃんはますます美化されていく。

 そんな、間近にいてさえ懐かしくて泣きたくなるくらいのしーちゃんだったから、しーちゃんが私のために産んでくれた子を、私が拒んだはずがない。もし、しーちゃんがあの肌寒い雨の日に死なないで、私もこのまま町に暮らしていて、ある日、子供の手を引いたしーちゃんが私の家を訪ねてくることを空想すると、それだけで私は酔ったような気持ちになる。

 もちろん、それは多分に都合のいい妄想だ。だが、それを単なる妄想だと切って捨てるには、四十年という年月はあまりに長い。「私」のなかで薄れるどころか、ますます鮮明に、色濃くなっていくしーちゃんの思い出が、限りなく美化されたとき、現実と妄想の境目はあいまいになり、「私」が認識するあらゆるものが、過去に向かって逆流をはじめる。

 だとしたら、本書はなんとあやうい物語なのだろう。どこまでが現実で、どこまでが妄想なのか――もしかしたら、この物語そのものが妄想の産物なのかもしれない、というあやうさのなかで、人はどこまで正気を保っていられるものなのだろう。いや、と私は思う。あるいは、「私」という人物は、そのときすでに狂気の領域へと足を踏み込んでいたのではないだろうか。そして、それこそ「私」が望んでいたものではなかったろうか。「早く昔になればいい」という想い、それを実現するには、かつてしーちゃんがいた静かな狂気のなかに飛び込むしかないのだから。(1999.02.03)

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