【角川春樹事務所】
『果しなき流れの果に』

小松左京著 



 どんなに裕福な人も、どんなに貧乏な人も、また、どれだけ社会的地位と名誉を手に入れた人も、どれだけ凶悪な犯罪を繰り返してきた極悪人であっても、およそ人間としてこの世に生を受けた以上、何人たりとも死から逃れられない、という意味では、すべての人間は平等なのだと思われてきた。そして、ある人間が生まれてから現在までの歴史を司るものであると同時に、来るべき死へのカウントダウンでもある「時間」もまた、すべての人間の頭上に平等に降り注ぐものである、とも。

 言うまでもなく、そうした私たちの「時間」に関する認識を根底からくつがえしたのは、かのアインシュタインによって提唱された相対性理論である。地球の外へと飛び去っていく宇宙船の中で流れる時間と、地球上で流れる時間は絶対ではなく、相対である、という時間に関する考えは、少なくとも私にとって、それまではあたり前のものだった時間の流れについて、一時期ではあるがあらためて目を向けさせることになった。時間とは何なのか――自分が感じる時間の流れは、本当に他人のそれと同じなのか。地球の自転が一日という時間の単位であるならば、地球の自転を止めれば時間も止まるのか。そもそも、時間とは過去から未来へと一直線に流れていくものなのか? 考えれば考えるほど時間の概念がわからなくなってしまったことを覚えている。

 本書『果しなき流れの果に』に書かれている大きなテーマは「時間」、そしてそれを認識する人間の可能性、ということになるだろうか。そもそも、そういったテーマのすべてを内包するかのようなアイテムの発見が、すべての物語のはじまりとなっていること自体、ひどく印象的な作品でもある。

 N大理論物理研究所に持ちこまれた、ひとつの砂時計――大泉教授の助手として研究所に勤めている野々村は、当の大泉教授と、その友人でもある番匠谷教授から見せられたその砂時計に驚愕する。それは、いくらこぼれても、上の砂溜めの砂はいっこうに減らず、下の砂溜めの砂もいっこうに増えない砂時計だったのだ。中生代上部白亜紀の地層から出土された、まるで時間のはじまりと終わりがウロボロスのようにつながって、永遠に閉じた時を刻みつづける砂時計と、それを手にして外から眺めている野々村、という構図は、そのはじまりにしてすでに本書の終焉を象徴する、という意味で、単に直線的にやってきて流れ去っていく時間への挑戦を示唆するものだと言えるだろう。

 というのも、本書をしばらく読んでいくと、物語は非常にあっけない形で「現実的結末」を迎えてしまうからである。砂時計の発掘現場で、現実には考えられないような発見や奇妙な出来事を体験した野々村をはじめ、「クロニアム」と呼ばれるその砂時計にかかわった者はすべて失踪したり死亡したりして、その世界での役割を終えてしまうのだ。もちろん、本書の分量としてはまだ三分の一にも満たない段階であるため、物語自体はその後も、私たちの想像を絶するような形に姿を変えて続いていくのだが、その後の物語を把握するためには、私たちが認識する時空間の常識から、一度離れて物語に接する必要がある。

 あなたはあるいは、不思議に思ったことはないだろうか。私たち人間が生きている地球の外側に無限に広がっている宇宙という存在が、そもそもビックバンという爆発によって、まさに無から生み出されたものであり、それ以降、宇宙は今もなお膨張をつづけており、その拡散していく速度によって、宇宙誕生からの「時間」が刻まれている、という考え方に。あるいは、天文学では考えないことになっている「宇宙の外側」について。精神を持ち、何かを思考しつづけ、理解できない事柄について想像力をめぐらせる能力を得た私たち人間が、その認識の力ゆえに「決定論」に反発し、抗う存在であることは、三浦哲郎の『白夜を旅する人々』でも書いたことであるが、本書のなかで繰り広げられる、十億年という気の遠くなるような時空を超えて続けられる戦い――本書の言葉を借りるなら「われわれに、なにかをうったえようとしている」干渉力と、「その訴えをさまたげようとする未来からの干渉」力との戦いは、まさに「決定論」を拒絶し、自分たちの種の未来は自分たちの手でつかみとり、変えていこうとする人間の、人間であるがゆえの強い意志が起こさずにはいられない戦いなのである。

 著者である小松左京は『日本沈没』など、今読んでもけっして古臭さを感じさせない、スケールの大きな物語を書くSF作家であるが、本書のスケールは、その中でもとくに群を抜いている。宇宙の生成と消滅、生物の進化、「意識」の高次の段階、パラレルワールドと立体的時間概念、オーパーツ、そして閉じた時空間からの脱却――本書で展開される、そのあまりにも壮大な舞台とその深遠なテーマをまのあたりにすると、私たちがあたりまえのように持っている意識や想像力が秘めている力の、とてつもなさを感じずにはいられない。

 認識には、終焉はない。あるのはかえって、時間のほうだ。――(中略)――時間もまた、有限で閉じられている。空間と同じように、始めと終りがつながる。終焉は初元とつながるのだ。だが、時間が終ったあとも認識は発展する。認識することは、時空間とはまた別の方向へ、意識が脱出して行くことだ。

 時空間を超えた戦い――私たち人間にとっては、かろうじてその痕跡を垣間見ることができるにすぎない、しかしながらあまりにも壮絶な「意識」の戦いを理解するのに、それまでの価値観はまったく意味を成さない。私たちが本書を読みすすめていくためには、それまでの現実認識を捨て、のみならず、自分が人間であることさえも捨ててしまうだけの意識の変容を迫られることになるだろう。そう、松浦が認識の階梯を這いあがっていったがごとくの体験が必要となるのだ。でなければ、私たちの意識は本書の「現実的結末」から一歩も外に出ることができなくなるに違いない。そして、一度先に進んでしまったら、もう後戻りはできないのだ。かつて、これほど読者を試す作品が他にあっただろうか?

 はたして、時空を超えた「超時空」、そしてそれさえも超えてしまった「超々時空」の最果てに、いったい「認識」の力は何を見ることになるのか――そして、奇妙な砂時計にかかわってしまったがために長い長い旅に出なければならなくなった野々村は、再び自分の世界に帰ることができるのか? 宇宙の果ての、そのまた向こうにまで想像をめぐらせた、稀有なSF作家の逸品をぜひ味わってもらいたい。(2001.02.09)

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