【角川書店】
『夜の果てまで』

盛田隆二著 

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 人間がこの世で生きていくというのは、さまざまな価値観をもつ人間によって構成される社会のなかで生きることと同義であり、私たちは意識するしないにかかわりなくその社会の恩恵を受けているが、またそれゆえにさまざまな関係性によって縛られた存在でもある。もちろん、私たちは基本的に自由意思をもっており、何を選択し、どのような行動をとるか、ということについて制限を受けるいわれなどないのだが、およそあらゆる行為について、自分ひとりの力で成し遂げるにはそうとうな労力を必要とするし、そもそもそんなことは不可能でもある。人間はひとりではあまりにもちっぽけでか弱い存在であり、誰かの力を借りなければ生きていくことはできない。ときに、私たちの自由意思をさまたげる社会との関係性――それは、たとえば勤めている会社との関係性であり、家族という血縁関係であり、あるいは自分が住んでいる町やいろいろな組織との関係性、しがらみと言い換えてもいいものであるが、逆に、私たちがこのしがらみを守っていくかぎりにおいて、日常生活におけるさまざまな面での安定を獲得しているとも言えるのだ。

 たとえば、何らかの犯罪行為に走る人々がいる。犯罪というのは基本的にいずれは露見し、しかるべきつぐないを受けるものであるのだが、そのことによって背負わなければならないリスクはけっして小さくはないにもかかわらず、人間社会のなかで犯罪はけっしてなくなることはない。あるいは、ある日突然失踪してしまう人々がいる。それはときに、本人の意思とは無関係のもの、何らかの事件に巻き込まれたものもあるだろうが、自分の意思で、それまで築き上げてきたすべてを投げ出して行方をくらましてしまうというケースも、けっして少なくはないという。当人に自由意思があったとして、いったい何がその人をそこまで突き動かしたのか、というのは、小説のテーマとして昔から多くの作家が挑戦してきたものでもある。

 さて、本書『夜の果てまで』の冒頭に書かれているのは、札幌家庭裁判所に提出された「失踪宣言申立書」の内容である。失踪者である涌井祐里子は1991年3月に誰かと失踪したまま七年経った現在にいたるまで戻ってくる気配がなく、受理されれば彼女は法的に死亡したものとみなされる旨が説明されている。そして、そこから物語は1990年の3月へとさかのぼる。涌井祐里子が失踪したちょうど一年前、しかしそこに登場するのは、4月から大学四年生になる安達俊介であり、そのときの彼は、二年間つきあってきた彼女に振られたばかりという状況にいた。鹿児島県出身ではあったが、来学期からいよいよ就職活動に入る彼は、ジャーナリストとして北海道新報社への就職を考えていた……。

 本書がその冒頭で失踪人のことをかかげている以上、そのあとにつづく物語は、当然のことながらその失踪へとつながる何かが、あるいは、失踪後におこった出来事が書かれるはずだと思うのが通常であるが、そこに描かれているのは、大きくふたつの主観によって展開していく濃密な人間ドラマであり、それによって浮かび上がってくる涌井祐里子という失踪人の人物像である。歳の離れた中年男性の妻として、小さなラーメン屋を夫とともにきりもりしている彼女――その家庭のなかにあって、不釣合いなほど女というものを感じさせる祐里子は、しかし俊介がアルバイトをしているコンビニエンスストアで決まった時間に現われては、決まってM&Mのチョコレートをひとつだけ万引きしていくという、どこか不安定な側面をもっていた。

 俊介の視点によって描かれるのは、その後、家庭教師という形で祐里子の家庭とかかわりをもつことになる彼が、しだいに彼女に惹かれ、秘密の逢瀬を重ねていく過程であり、言ってみれば人妻におぼれていく禁断の恋の顛末ともいうべきものであるが、そこには例えば「不倫」といった言葉にともなうような不誠実さ、後ろめたい気持ちというよりは、むしろひとりの若者がはじめて知った、誰かを心から愛するという熱情に夢中になりながらも、社会的にはけっして正統とはいえない関係にとまどい、揺れ動く心を描いたまっとうな恋愛小説という要素のほうが大きい。

 もうひとつの視点は、その俊介が家庭教師として面倒を見ることになる中学生の正太のものである。彼は何度も登校拒否をくりかえし、またタチのいいとはいえない友人たちと煙草やシンナーをやったりする問題児であるが、その背景には正太が置かれている複雑な家庭環境が遠因となっている部分もあった。「母」というよりは、むしろ「女」として意識せずにはいられない、父の若い再婚相手である祐里子のほかに、法的には離婚が成立しているものの、精神的な病などの要因のせいでなお家族としてのつながりを断つことのできない実の母親、そして新しい母親をののしってばかりいる祖母――俊介の視点が「恋人」としてのものであるとするなら、正太のそれは「親子」としてのもの、ということになるのだが、物語構造としては、むしろ祐里子の置かれた家庭環境の代弁者という役割を担っていると言える。

 このように説明していくと、恋愛や家族といったさまざまな人間ドラマが絡んでくる本書ではあるが、けっきょくのところは、冒頭で失踪することになる涌井祐里子がどのような女性であったのかを浮き彫りにしていくことが、本書のひとつの目的であることがわかってくる。はたして、俊介と祐里子との関係はどうなってしまうのか、そして正太の家族は? 面白いことに、冒頭の「失踪」という事実へと最終的にはつながっていくこの物語は、しかしその事実と直接的につながることなく物語を終えてしまう。つまり、なぜ祐里子が失踪したのか、そこにどんな意思がはたらき、誰がそこにかかわっていたのか、という事実については、ついにわからないままなのである。だが、俊介や祐里子とともに最後まで本書を読み通した読者であれば、その後の展開について想像することは容易であるに違いない。なぜなら、そこに書かれているのは祐里子のことであると同時に、たった一度の人生において、本当に大事なものは何なのか、そしてそのために何をしなければならないのか、という困難な状況を経て、ようやく自分のなかにひとつの答えを見出した男の姿があるからである。そして、その片鱗が本書冒頭の「失踪」という事実とつながったとき、その届出はたんなる書類ではなく、その裏に秘められた深い想いのゆるぎない結晶へと変質することになる。

「生きていれば人は何度も人生の岐路に立ちます。そのたびに自分の意志で進むべき道を選ぶことができる。でもほとんどの人がその権利を放棄しています。――(中略)――人生、一度しかありません。世間体や他人の思惑にゆだねて生きていくなんて、そっちのほうがもったいない話です」

 こうした引用は、それ単体だけを取り出しても、あるいはあまりに使い古されたものとして、何も心に響くものがないかもしれない。そして、本書のなかで俊介と祐里子がとることになる行動は、人によっては愚かしいものとしか映らないものであるかもしれない。だが、世の中を賢く、そつなく渡り歩いている私たちが、そんな彼らのなりふりかまわず、自分が大切だと思うもののために懸命に生きていく姿に、羨望にも似た思いを心のどこかで感じさせずにはいられないものが、本書のなかにはたしかにある。(2006.02.09)

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