【集英社】
『走るジイサン』

池永陽著 
第11回小説すばる新人賞受賞作 



 私はスポーツは嫌いだが、走ること自体はそれほど嫌いではない。それで、しばしば近くのジョギングコースを走ったりしていたのだが、シューズを変えたのが悪かったのか、それとも無理をしすぎたのか、ある日、左膝の関節が痛みだし、走れなくなってしまったことがある。それまであたり前のようにできたはずのことができなくなったことが、そのときの私にはショックで、そんな自分の体に無性に腹がたったのを覚えている。
 私にはまだ、老い、ということばが持つ重みなど実感できないし、実感できるほど長く生きてきたわけでもないが、体が言うことをきかなくなり、そんな自分の体と折り合いをつけて生きていかなければならないのが、年をとる、ということなのかもしれない、と今になって思う。
 本書『走るジイサン』の、そのインパクトのあるタイトルとはうらはらに、物語そのものは、今年で六十九歳になる作次という老人を中心にした、ごくごくありふれた日常生活をとりあつかっている――ただ一点、作次が自分の頭の上に猿が乗っかっている、と思い込んでいることを除けば。

 作次の頭に猿が乗ったのは、一人息子の真次が結婚し、その嫁の京子と三人で暮らしはじめた頃。鋳物職人として五十年以上も働いていたが、体力の限界を感じて引退した作次は、家にいれば嫌でも京子とふたりっきりになってしまう。常に凛々しい表情を崩さず、誰にも隙を見せまいと肩肘を張ったように接する京子に対し、舅であり、すでに老年になっているにもかかわらず、作次は欲情にも似たいとおしさを感じてしまう。

 自分は老人である以前に男である――いくら作次がそう思ってみたところで、体は正直だ。はずかしい思いをしてコンドームを買ってきても、つけるべき一物はいつも伸びきってしまっており、コンドームはただ手のなかで握りつぶされるのみ。確実に衰えてきている肉体、そして家族のなかのお荷物になっているのではないか、という疎外感――せめて自分の世話は自分でしよう、というプライドはあるものの、かつての祖父のように、何がきっかけで生きる気力をなくし、寝たきりや痴呆症になって家族に迷惑をかけるようになるか、わかったものではない。そして、作次にとってそれらの問題は、もうすぐ目の前に迫っていることなのだ。

 地球上のどんな生物も、生まれ落ちたその瞬間から、年老いて死んでいくさだめを背負っている。体が衰えていくこと、そしてやがて死を迎えること――それは自然の法則であり、ごく自然なことである。頭の上に猿が居座るようになってから、作次は自分の家族や友人たちの間で起こったちょっとした事件を通して、自分が年寄りであるという事実とどう向き合い、どう折り合いをつけていくかを、猿に話しかけるという形で彼なりに考えようとしているように思える。

「わしは近頃、おめえが羨ましくてしょうがねえよ。人間は駄目だ、いろんなことを考えすぎる。金のこと、女のこと、これから先のこと。そんなこと考えてもどうにもならねえんだけど考えちまう。考えちまうともうにっちもさっちも身動きがとれねえように縛られちまう……不自由なんだよ人間は」

 作次の頭に座っている猿は、いったい何者なのか――その答えを見出そうとすることは、たとえばなぜ人は生きるのか、そしてなぜ人は死ぬのか、という疑問の答えを見出そうとするのと同じくらい難しく、そして無意味なことのような気がする。とにかく、いるものはいるのだから、理屈ぬきに猿の存在を認めてしまおうと決意した作次――それは、あるいは作次も認めるように、静かな精神崩壊の一端なのかもしれない。
 けっしてプライドを捨てる、というのではない。何でも深く考えすぎてしまう人間の性からの解放――もしかしたら、それこそが年をとるということの、究極の意義なのかもしれない。(1999.05.19)

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