【講談社】
『破線のマリス』

野沢尚著 



 数多くの映像という名の現実を、自分の感性でもって思いのままに切り取り、組み合わせ、編集し、まったく別の現実を作り出す――自分の主観的真実が大勢の人間に影響を与えていく様を見て、遠藤瑤子はきっと、世界を自分の思いどおりに創造できる神のような気分を味わったに違いない。

 本書『破線のマリス』の登場人物である遠藤瑤子は、首都テレビの報道番組『ナイン・トゥ・テン』の特集コーナー『事件検証』の映像編集を担当している。そのたぐいまれな映像センスとセンセーショナルな切り口は、しばしばその独善的な報道内容で問題視されながらも、常に高視聴率を維持しており、瑤子は一映像編集者でありながら、一目を置かれる地位を確保してきた。
 ある日、瑤子はある男から内部告発と称するビデオテープを手に入れる。官民の癒着と弁護士殺人事件の関連を示唆するその映像を使い、瑤子はある男がその事件の容疑者であるかのような映像編集をおこない、放送してしまう。もちろん、そのことでその男がどんな運命に陥ろうが瑤子の知ったことではない。自分の納得のいく映像を作るためなら、本番中であろうが映像編集をつづけ、ディレクターやADの迷惑などまったく意に介しない瑤子にとって重要なのは事実ではなく、映像編集による生み出される自分の主観的真実なのである。

 瑤子は、テレビ報道が客観的事実を伝えることなど不可能であるということを知っている。それならば自分の主観的真実にあくまで忠実であればそれでいい、と開き直り、高視聴率を取りさえすればいい、と現実にはない映像を捏造することさえも厭わず、「だからこの仕事、やめられない」と心の中でうそぶく。瑤子の手腕ひとつで、無実の男を殺人犯に仕立て上げることもできる――それはある意味、他人の生殺与奪を握ることができるのと同じことだ。瑤子その自己中心的なふるまいの中には、非常にもろくて危ういものが見え隠れしている。それは、おそろしいまでに自分勝手な生き物へと成り下がってしまう危うさである。

 映像を自在に操ることができるはずの瑤子が、逆にその映像によって徐々に窮地に追い込まれていく――でっちあげでしかなかったビデオテープにまんまとだまされた瑤子だが、すでに放送してしまった映像は、やはり彼女にとって真実である。その主観的真実を見なおすことのできなかった瑤子は、あくまで彼女にとっての真実を守るために暴走していく。どこかにありがちな感想になってしまうが、映像による大衆心理操作の恐ろしさを充分に盛りこんだ作品だ、という言葉に嘘はない。

「あんた自身の目で何を見てるって言うんだ? あんたの仲間が現場で撮影してきた映像を、あんたはただ受け取り、テレビ局の穴蔵に閉じこもって切り刻んでいるだけだろうが!」

 瑤子によって弁護士殺人事件の容疑者にされ、人生を狂わされた男がそう叫ぶ。そして、私達は毎日その切り刻まれたテレビ番組を見て、それを正しいものだと思って見てしまっている。
 「自分の目で実際に見たものしか信じない」と言った男がいる。だが、その男の見たものが巧妙な手品であったとしたら、はたして男は本当の真実を見たと言えるのだろうか。いや、そもそも目で見たものが、眼球という末端組織が受け取った光の情報を脳という装置で加工・編集したものでしかない、という事実が存在する以上、何が真実かなど、もはや誰にもわからないのではないだろうか。

 人の数だけ存在する、主観的真実。私達の世界は、そういった主観的真実の寄せ集めでしかないのかもしれない。もろくて危うい土台に乗っているのは、何も瑤子ひとりだけではないのだ。(1999.02.23)

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