【文藝春秋】
『春の夢』

宮本輝著 



 幸せとは、何だろう。
 一生ぜいたくして暮らしていけるだけの富を手に入れることだろうか。どんな男も羨むような絶世の美女を彼女に持ったり、または玉の輿に乗ったりすることだろうか。大きな権力を手中にし、下の人間を自在に動かすことだろうか。何かで偉大な功績を残し、高い名誉を得ることだろうか。
 あるいは、この世の大多数の人々がそうであるように、ごく普通に働き、ごく平凡な恋をして結婚し、ささやかな家庭のなかで生きていくことなのだろうか。

 本書『春の夢』の登場人物である井領哲之の現在の境遇は、客観的に見てもそうとうに不幸だ。死んだ父が唯一彼らに残していった、多額の借金――その借金の返済を迫る、執拗で暴力的な取り立て屋から逃れるため、母と別々に暮らさなければならなくなった哲之は、都心から遠く離れた町のボロアパートで一人暮しを始めることになるのだが、大家の手違いで電気がつかないその部屋での最初の夜、柱に釘を打ちつけようとして、誤ってそこにいた蜥蜴まで釘づけにしてしまったことに気づく。しかも、その蜥蜴は体を貫かれた状態にあって、なお生きつづけていた。爬虫類の苦手な哲之は、最初はなんとかして殺してしまおうと考えていたのだが、次第に愛着に似たようなものを感じるようになり、釘を抜くに抜けなくなってしまったその蜥蜴の世話をするようになるのだが……。

 それから一年の間に、哲之の身のまわりではさまざまなことが起こることになる。恋人だった大杉陽子とはじめて肉体関係を持ち、いつかは結婚しようと決意したり、そんな陽子が別の男と付き合いはじめたことを知って苦悩したり、アルバイト先のホテル内での派閥抗争に巻き込まれたり、ドイツから来た老夫婦に京都案内を頼まれたり、そんなアルバイト先で客から多くのチップをもらって喜んだり、取り立て屋に見つかって大怪我させられたり……。それらの出来事は、あくまで哲之の個人的範疇に収まってしまうような、ごくごくささやかな出来事でしかない。だが、そんな小さな出来事のなかで、登場人物達はなんとリアルに描かれていることだろう。ちょっとしたことに悩んだり苦しんだり、逆に嬉しくなったり――そんな彼らの姿は、人よりいい目にあいたいとか、人を支配してやりたいとか、幸せになりたいとかいった、人間であるがゆえに抱える種々雑多な欲望に縛られて生きていかざるを得ない私たちの現実の姿を、ありのままに映し出しているのだ。そして、そんな出来事のなかで、哲之の心はしばしば、釘づけにされてしまった蜥蜴へと飛ぶ。

 なぜ人は生きようとするのだろう。なぜ人は生きなくてはならないのだろう。また、人はなぜ死ぬのだろう。父の借金を背負い、先がまったく見えてこない不安にうんざりし、生きるのに疲れてしまったとき、哲之は、釘づけにされてなお生きつづけている蜥蜴の姿に、そして彼が見た、自分が蜥蜴となって何百回と生まれ変わりつづける夢のなかに、「ある深遠な世界の淵に立って、不思議な何物かを覗き込んだよう」な感じを受ける。

 哲之はふと、死が確実に行手に待ちかまえているからこと、人間は、何がいったい幸福であるのかを知るのではないだろうかと考えた。死があるからこそ、人間は生きることができるような気がしてきたのだった。彼は母の匂いを思い出した。生前の、父にまつわる楽しい思い出が、波のように、心の淵に押し寄せてきた。陽子のふくよかな微笑と清潔な体が哲之を包んでいた――(中略)――それらはみな、いまの哲之にとっては幸福と呼べるものであった。

 前途多難ではあるが、それでもなお前向きに生きていこうとする哲之の姿は、きっと多くの読者に共感を与えることになるだろう。そして、物語のラスト――その最後の一行を読んだとき、読者はふと、本書のタイトルに立ちかえり、それが意味するところのものを考えさせられることだろう。それにしても、なんとも絶妙なタイトルのつけ方である。

 胡蝶之夢、ということばがあるが、私たちのごくごく平凡な人生も、あるいは誰かの夢の中の出来事でしかないのかもしれない。生きるということ、そして死ぬということ、それは、あるいは夢と現実を行き来するようなもの……。(1999.07.05)

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