【新潮社】
『春の雪』
豊饒の海(一)

三島由紀夫著 



 この世に現存する美しいものは、その美しさゆえに脆く、儚いという印象を持たれることが往々にしてある。例えば、ほんの数日の間だけ満開の花を咲かせ、あっという間に散ってしまう桜の花、あるいは、たった一日しか生きられないと言われているウスバカゲロウの成虫の、虹色に光る羽――それらのものが、はたして儚いものだからこそ美しいのか、美しいからこそ儚いのかはわからないが、ひとつだけ言えるのは、それらの美しい瞬間を手に入れることも、その美しさを永遠に固定しておくこともできない、ということだ。仮に、手に入れることができたとしても、その瞬間にそれは美の輝かしい力を失ない、たんなる物体へと変質してしまうことだろう。そして後に残るのは、ただの抜殻でしかない。まるで、俗世に汚れた人間の手によって、至高の美が汚されてしまうかのように。

 けっして手に入らないからこそ美しいものを、それでもなお追い求め、自分だけのものにしたい、という欲求は、あるいは人間という生き物が抱えた最大の不条理なのかもしれない。三島由紀夫がその晩年に書き上げた長編小説「豊饒の海」、その第一巻である本書『春の雪』は、まさに至高の美を求めるがゆえに、否応なく破滅への道を突き進むことになる、ひとりの男の恋を描いた作品だと言うことができるだろう。

 本書の冒頭で登場するのは、一枚の写真の描写だ。日露戦役を題材とした写真集のワンカットである、戦死者の弔祭の様子を撮ったその写真は、帝国ロシアに勝利し、世界の覇権をめぐって列強諸国と肩を並べるにいたった日本の躍進ぶりとは裏腹に、どこか沈痛で、内にこもるような暗い雰囲気に満ちている。戦死者を弔うために集まった数千のうなだれた兵士たち――その日露戦役での活躍によって公爵の地位を授かった松枝家の嫡男である清顕は、その兵士たちこそが、実は死者なのではないか、と感じるわけだが、生きる者さえも死者の世界に引きずりこんでしまうその写真こそが、あらゆる意味で本書の物語を象徴していると言える。

 生まれた瞬間から富豪である貴族の一員であることを宿命づけられ、何ひとつ不自由することのない環境のなかで育ち、貴族院としての将来が約束され、さらに輝かんばかりの美貌に恵まれた少年清顕は、十八歳にして、すでにこの世のすべての仕組みを悟った年寄りであるかのように老成し、世の中のことに興味を失いつつあった。自分がどうあがいても、現在、過去、未来、すべての時間軸が本人の意志とは関係なく決定づけられ、流れるところへと流れてしまうという、あまりにも安定した、しかしそれゆえに硬直してしまった流れを前にして、清顕は、一方ではアイデンティティ――自分が自分であるという、確固とした存在意義を奪われつつあるのでは、という焦燥にも似た思いを抱きつつ、もう一方では、生まれたときから馴染んでしまった貴族としての自尊心、そして自分の美貌がもたらさずにはいられないプライドゆえに、現状に流されるままに流れることへの諦念にも似た思いを抱くという、二律背反の状態にあった。
 そんな彼自身の、あらゆる点で安定してしまったものを唯一、揺るがせてしまうものとして、古くから続く由緒ある家柄の娘である綾倉聡子の存在がある。容姿端麗にして優雅の雰囲気に満ちた、典型的なお嬢様でもある聡子は、しかし常に清顕に、得体の知れない不安を与える幼馴染として、一方では憎み、もう一方ではいとおしく思うという、相反する感情を交錯させることになる。それゆえに、当初の清顕の、聡子に対する態度は非常に不安定に揺れ動くのであるが、彼がやがて、聡子への愛に目覚めていくことになるのは、言うまでもないことだろう。

 夢と転生という壮大なテーマを四部に分けて構成する「豊饒の海」――ちょうど起承転結にも結びつくシリーズの「起」にあたる本書において展開される、清顕と聡子の恋愛感情は、たんなる恋愛として片付けられてしまうにはあまりにも複雑であり、そしてあまりにも破滅的であると言わなければなるまい。そこには、その自尊心ゆえに完璧を求め、その不可能性をも愛したゆえに破滅しなければならなかった清顕の心と、その一種の荒ぶる心に翻弄されつつ、その感情に染まるかのように道を踏み外すことを望むようになる聡子の、何より一個の人間としての感情にしたがって生きてみたい、という欲求が絡んでくるのである。

 大正はじめという時期の、貴族という身分の人々の生活を中心に描かれる本書において、ひとつ特徴があるとするなら、その曖昧さである。天皇家とも何らかのつながりがあるという、言わばエリートの家柄の人たちの身分は、かつてその先祖が輝かしい活躍をしたからこそ与えられた身分であって、けっして当人の努力があったわけではない。実際、その貴族たちの格式ばった、妙に古臭い感じのする雅の数々を、著者は壮麗な言葉を駆使して表現しつくしてはいるが、その実、芯となるべきものは、どこにも存在しない。言葉という飾りによって、かえって彼らの空虚ぶりが明らかになる、という手法を著者は見事に表現しているのだが、清顕と聡子がたどることになる、場合によっては天皇家への冒涜にさえつながってしまう最大の背反行為も、その権力と財力を駆使してもっともらしい嘘をこしらえ、醜い部分を徹底して隠すことができてしまうという、彼らの力――そんな貴族たちの、何の形も価値観もないように思える「家柄」を守るための、すさまじい権謀術策に比べて、貴族という形ではなく、自分の感情とともに生きようとする二人の姿は、ある意味潔いと言うべきであろうし、彼らこそ真に生きていると言うこともできるだろう。ただ、そのために二人は、むしろ意図して困難な状況に自らを置き、困難であればあるほど燃え上がる恋という感情を利用しなければならなかった。

「権力も金力もはじめから役に立ちはしないさ。忘れてはいけない。貴様は、権力も金力も歯が立たない不可能をはじめから相手にしたんだ。不可能だからこそ、貴様は魅せられたんだ。そうだろう? それがもし可能になったら、瓦と同じだろう」

 清顕の無二の親友であり、今後、転生していく彼を客観的に見届ける役割を果たすことになる本多繁邦のこの言葉は、奇しくも清顕が陥った状況――おそらく本人さえ意識していない聡子とののっぴきならない状況について、じつに的確に言い表している。そして二人は、不可能に魅せられたがゆえに、現世における破滅を運命づけられてしまうのである。

 本書のタイトルである『春の雪』――そこには、たとえ降ってもすぐに消えてなくなってしまうもの、そしてそれゆえに美しいもの、という意味が込められている。それはある意味、清顕と聡子が求めた至高の愛情の形にも似ているのかもしれない。(2001.01.03)

ホームへ