【東京創元社】
『暗殺のハムレット』
−ファージングU−

ジョー・ウォルトン著/茂木健訳 



 自由という抽象観念について考えるとき、けっして忘れてならないのは、そこには必ず自分と他者とがまったく同一の権利を有するという前提があることである。「自由」と聞いてただ「何をやってもいい」ととらえてしまう人は、その視点がまるまる抜け落ちてしまっているわけで、これでは自分は「自由」かもしれないが、他者は「自由」だとは言えない状態にある。「自由」とは、私が「何をやってもいい」のと同様に、他者もまた私のやった「何か」の情報を取得する自由、およびそのことを考慮し意見する自由があって、はじめて成立する観念である。

 さて、そんなふうに自由というものを定義してみると、そもそも私たちは本当に意味で自由なのだろうか、という疑問が当然のことながら想起される。私たちはいろいろな枠によって、すでに多くの制限をかけられてしまっている。それはあるときは母語とする言語によって、あるときは動物としての肉体によって、あるときは人間社会を維持していくさまざまな規律によって、そしてあるときは血筋という形をとって、私たちの言動を縛るのだ。とくに血筋――親戚関係といものは、その人が生まれ落ちたその瞬間から問答無用に決定してしまうものであり、個人の力ではいかんともしがたい拘束力をもつ。そして、だからこそこの血筋の問題は、古今東西の小説において、大きなテーマとしてとりあげられてきていると言うことができる。

「おまえは女だし、女優だ。――(中略)――だがおまえは、正しい育てられ方をしてきたのだから、いざという時はラーキンの血がおのずと正道を歩ませてくれるだろう」

 第二次大戦中にイギリスとドイツが講和を結び、1949年になってもなお戦争が終結していない世界を舞台とする「ファージング」シリーズ――その二作目にあたる本書『暗殺のハムレット』では、ナチスドイツのような独裁政治を推し進めるイギリス首相と、ナチス総帥であるヒトラーの暗殺計画という大きなイベントが軸となり、その計画にかかわることになった人々の運命を描いた物語である。前作『英雄たちの朝』同様、一人称で語るヒロインを主体とするパートと、スコットランドヤードの警部補であるピーター・カーマイケルを主体とするパートが交互に入れ替わって話が進展していくという構成をとっているが、本書においては前者は暗殺の実行犯側、後者はその暗殺を阻止する側という明確な行動目的があり、そういう点では前作よりも、その対象がより鮮明になっていると言える。そしてこの対極に位置するふたつの物語構造は、それぞれの物語の流れにおいても、じつに興味深い対極構造を見出すことができる。

 まずは暗殺の実行犯側のパートについて。ここで登場する一人称の語り手となる女性、ヴァイオラ・ラーキンは演劇界の女優であり、今度のロンドンでの演劇「ハムレット」においてハムレット役を演じられるということで意気高揚することはあっても、本来であれば暗殺などという血なまぐさい活動とは無縁の女優人生をおくるはずであった。しかし、その「ハムレット」公演初日にイギリス首相ノーマンビーとヒトラー総帥が観に来る予定だという偶然、そしてヴァイオラが他ならぬイギリス貴族の家系に属していることが、彼女を否応なく暗殺計画へと巻き込んでいくことになる。

 ヴァイオラがふだん、「ラーキン」ではなく「ラーク」という芸名を使っていることからもわかるとおり、高名な貴族の家系に自分もまた連なっていることをけっして快く思っていない。その点は、前作における語り手のルーシーと立場としては同じではあるが、ヴァイオラの場合、そうした一族とのかかわりを絶ったうえで、一個人として演劇界での名声を得ようとしている点でより自立的だ。じっさい、両親とは縁が切れたも同然で経済的援助もなく、故郷にも一度として戻っていないという徹底ぶりである。

 だがそんなヴァイオラも、その姉妹たちとの縁については完全に断ち切ることができず、今ではコミュニストとなったクレシダたち暗殺実行犯の計画を手助けする立場に追い込まれることになる。言ってみれば、ヴァイオラのパートは暗殺実行犯の視点でありながら、その主役となるヴァイオラは暗殺に加担する気などさらさらない、妹がかかわってしまっていること(そのことすら腹立たしく感じている)、そして計画を知ってしまった自身の危険を感じているからこそ手助けしているにすぎない身なのだ。そんな彼女の心境が、物語のなかでどのような変化を遂げることになるのかが、本書の読みどころのひとつだと言える。

 次に暗殺を阻止する側の主役であるカーマイケルには、前作の殺人事件の捜査において、その真相に達していながら、ノーマンビーたち「ファージング・セット」の権力基盤を固めるために偽りの事実――犯人はユダヤ人のテロリストであるという嘘――をでっちあげる片棒をかついでしまった負い目を今も引きずっている。そこには、彼が同性愛者であるという事実を掴まれたという事情もあるのだが、警察の本分を自ら裏切ったという事実は変わらない。そして首相の座についたノーマンビーは、テロリストから国民を守るという口実のもと、さらに国民の自由を束縛するような政策を実行に移そうとしている。言ってみれば、カーマイケルにとってノーマンビーこそが不倶戴天の敵なのだ。

 こうして、それぞれのパートにおいて、そのなかで与えられた役割をそれぞれの主役が、心のなかでは否定したり批判的であったりしながらも、表面上はそれぞれの役割に忠実に動かなければならないというジレンマを抱えるという二重構造ができあがっている。そしてこの心の揺らぎは、対象の爆殺という予定された一点へと収束していきながら、しかしながらどちらに転んでしまうのかは最後までわからない。こうした緊張感を絶妙なバランス感覚で維持していく巧妙さは、彼らの抱える不自由さと、ファシズムへの道をいよいよひた走ろうとしているイギリス政府という呼応関係もふくめて脱帽ものだと言える。

 貴族の血筋から自由でありたいと願いながら、その血筋ゆえにイギリスの「乾坤一擲の荒療治」に加担せざるを得なくなった女優の不自由さ、性別を超えた恋愛感情という自由さをもちながら、まさにその自由さゆえに権力の意のままに動かなければならないという警察の不自由さ――ファシズムの浸透とともに失われていく「自由」は、はたして登場人物たちの人生をどんなふうに狂わせてしまうのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2012.06.04)

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