【幻冬舎】
『半島を出よ』

村上龍著 

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 マイノリティとなって、はじめて見えてくるものというのがある。一番手頃なのは利き腕の問題だ。駅の自動改札口にしろ、自動販売機にしろ、いずれも右手でキップや定期券をもち、右手で硬貨を投入することを前提につくられているもので、右利きの人たちは普段そんなことを意識することすらないのだが、たまたま利き腕を怪我したりして使えなくなってみると、そうした不具合は突如その人の前に立ちふさがってくることになる。そして不意に気づくのだ。この人間社会が、基本的にマジョリティの論理で動いており、また社会というのはマイノリティに犠牲を強いることによって機能しているのだ、ということに。

 上に挙げた例だけでは、あるいは大袈裟な結論のように思えるかもしれないが、こうした多数派と少数派の格差というのは、昨今注目されつつある「格差社会」を挙げるまでもなく、ちょっと意識して周囲を見渡せばいくらでも見つけ出すことのできるものでもある。たとえば、ニュースや新聞などでは毎日のように何らかの犯罪が報道されているが、ふだん平和な日常を繰り返している人たちにとって、そうした犯罪はあくまで対岸の火事であり、それがもしかしたら自分の身にも降りかかってくるかもしれない、といった想像をすることは難しい。事件に巻き込まれたり、いじめの対象となったり、大きな事故や災害に遭ったり、あるいは自分の大切な人が不意に死んでしまったり――そうした、大きな不幸というマイナーな出来事は、誰にでも起こりえることなのだ。そして、一度マイノリティとなってしまうと、ふたたびマジョリティとして社会に認識されることは容易ではなくなってくる。一度犯罪を起こして逮捕されれば前科がついてしまうように、マイノリティというレッテルはなかなか拭い去れないし、何より無自覚なマジョリティがそれを許さない。

 他人の不幸に人々が興味をもつのは、けっして不幸そのものに興味があるわけではなく、他人の不幸を自分の今の境遇とを比較し、「自分はアレよりはすっとマシだ」と安心したいからに他ならない。人間として生きることが、何らかの共同体の中で生きることと同義である以上、運命的なものであるさまざまな差別――思えば、村上龍という作家はいつでも、そうした目に見えにくい、あるいは人々の目から巧妙に隠されている醜く歪んだものを、ひとつのリアルとして人々の前にさらけ出すような作品を書いてきたが、今回紹介する本書『半島を出よ』は、ことのほかそうしたテーマがはっきりと表われている作品だと言うことができる。

 国はわたしのことを考えているわけではないのだと、尾上知加子は気づいた。国が考えているのは大多数の国民のことで、わたしのことではない。――(中略)――状況の変化によっては、誰でもある日突然に多数派から少数派へと立場が移ってしまう可能性があるということだ。

 預金封鎖策などの致命的な経済運営の失策によって深刻なインフレと不況に見舞われ、経済大国としての地位から転がり落ちた近未来の日本で、ある日突然起きたテロ事件――ナイターの最中だった福岡ドームを占拠した九人のテロリストたちは北朝鮮の反乱軍を名乗り、ドームの観客三万人を人質にまんまと同国の特殊部隊五百名を引き入れることに成功する。これまでにない未曾有の危機を前に何ら有効的な対策をとることができず、また彼らがあくまで反乱軍でしかない、という名目と、国際的にも孤立しつつあるがゆえに外国の支援をとりつけることもできない日本政府を尻目に、彼らは福岡にあらたな国家を築くため、数日後には十二万におよぶ同胞たちをこの地に迎え入れることを宣言する。

 以前、同著者の『希望の国のエクソダス』を読んだときにも感じたことだが、全国の中学生による一斉教育ボイコットにしろ、北朝鮮軍による福岡占拠にしろ、書かれている内容そのものについては、およそ現実にはありえそうもない、突拍子もない事柄であるのはたしかでありながら、にもかかわらずこれらの作品を読んだときに感じずにはいられないある種のリアルさは、たとえば北朝鮮という近くて遠い国をはじめとして、膨大な資料をもとにした圧倒的な知識と情報によって裏打ちされたものだから、という理由だけでは説明のつかないものがある。では、本書がかもし出すリアルさがどこから来ているのかといえば、おそらく私たち読者が無自覚に従い、あるいは常識だと思い込んでいる共通認識ではけっして推し量ることも、理解することもできない「異物」の存在であり、それらを前にしたときに私たちが感じずにはいられない不快感や不安といった負の感情をかきたてられる、という意味でのリアルさである。

 そう、いっけんすると本書はこのうえなくエンターテイメント的な要素に溢れた作品である。一般市民にはとうてい太刀打ちできない圧倒的な暴力を背景に、やすやすと福岡を制圧してしまった北朝鮮軍、刻々と迫り来る十二万もの部隊を前に、ほんの小さな勢力にすぎない日本人のあるグループが、乾坤一擲の秘策を胸に彼らと戦うべく立ち上がる――だが、こうした美辞麗句に満ちた表現ほど、およそ本書の雰囲気とそぐわないものはない。なぜなら、北朝鮮軍たちの礼儀正しい態度の裏に垣間見える異様なまでの排他性と閉鎖性にしろ、イシハラたちをはじめとする少年グループの、物事への認識や価値観のズレが大きいがゆえに、社会への適応という意味ではこのうえなくはみ出さずにはいられないその性質にしろ、いずれも安易なレッテルづけを拒否するほどの「異物」を抱えているからであり、その感触はおよそ爽快感といったものとは無縁のものであるからだ。本書のなかで、北朝鮮軍はけっして「悪」ではないし、少年グループたちもけっして「正義」ではない。

 この世界はけっして平等ではないし、この日本という国にしても、私たちが考えているほど安全でも平和でもない。いつ、どこで多数派から転落するかなど誰にもわからないし、またいつまでも多数派でいられるという保障はどこにもない。本書の物語を動かしていく主要な登場人物たちは、私たちが普段生活していくうえで、あえて目をつぶって見ないようにしているそうした事実の象徴として機能している。いくらその外見が美しくても、腹を裂き、内臓をむき出しにすればとたんに吐き気をもよおすほど醜い姿に成り果てるように、彼らの存在は、私たちの本能的な危機感を刺激する。どんなに気の強い人間でも、武器を前にすればその意思とは無関係に体がすくみあがり、死にたくない、生きたいという本能がそれまで積み上げてきたプライドや自尊心を打ち砕き、ありえないほどの醜態をさらけだす。そこには、人間という生き物のこのうえない弱さ、醜さに満ちている。
 重要なのは、北朝鮮軍との戦いというシチュエーションでもなければ、その結末でもない。理不尽な力――人を殺傷するに足る暴力によって生じたあらたな格差が、これまで真実であったはずの価値観を打ち砕き、そのことによって噴出してくるものを、間違いなく自分たちのそばにあるリアルとして認識させることこそが本書の主題であり、同時に著者がもっていた一貫したテーマでもある。

 この国では多数派から遠く離れるのが本当に難しい――(中略)――このことだけは何度でも言うし、大事なことだから一度しか言わないけど、多数派に入っちゃだめよ。多数派に入るくらいだったら人を殺したほうがモアベターよ。

 平等を謳いながらも、偏差値教育で周囲との競争を強制する学校教育、平和や共存を訴えながらも相手を脅し、優位に立とうとする人たち――こうした世の中の矛盾について、それが社会のあり方なんだと納得するのは簡単だ。だが、そうした矛盾を理屈ぬきで「矛盾」だと認識するための力が、はたして今の私たちにどれだけ残っているだろうか。村上龍の作品がかもしだす「異物」の感覚は、もしかしたら私たちが今もっとも向き合うべき本質をついているのかもしれない。(2007.03.22)

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