【新潮社】
『ハンニバル』

トマス・ハリス著/高見浩訳 



 この世でいちばん恐ろしいもの、それはしばしば「真実」という名を冠して私たちの目の前に立ち現われてくるものである。私たちの住むこの世界は、建前とうわべだけをとりつくろった、言わば嘘っぱちの世界であるということに反論する気はないが、それは同時に「真実」という名の暴力から、私たち自身が守られている、と言いかえることもできよう。人間というのは、一方で真実を追求しながらも、もう一方の心では、そのまぎれもない真実をまのあたりにすることを怖れてもいる。そしてその怖れは、およそ人間であれば正しい反応であろうと私は思う。私という人間の皮一枚を隔てた内側にある骨や肉や内臓の、生々しいまでの「真実」、この世に生まれてきた以上、どんな動物にも必ず死が訪れるという「真実」、そして、私たちの誰もが心の中に宿している、底知れない悪意――その気になれば、自分もまた喜んで他人を傷つけたり、どんな残酷なことでも実行することができる、という「真実」が、もし剥き出しのままで私たちの生活に存在したとするなら、私たちはおそらく、時を経ずして発狂してしまうことになるだろう。

『羊たちの沈黙』『レッド・ドラゴン』そして本書『ハンニバル』を通して描かれることになる連続殺人犯にして食人鬼、ハンニバル・レクターという「怪物」についてひとつだけ言えることがあるとすれば、それは彼が、この世の「真実」をあまりにも聡明にとらえることができるだけでなく、ときにその「真実」を、ありのままの姿で他人の目の前に提示することのできる精神の持ち主である、ということではないだろうか。

 あの凶悪犯収容棟の最深部における、レクター博士との運命的ともいえる邂逅から七年――かつてFBIアカデミー訓練生だったクラリス・スターリングは現在、FBI特別捜査官として、凶悪犯相手の危険な任務をこなしつづけていた。彼女のその待遇は、けっして恵まれたものではない。そこには、七年前にクラリスがレクター博士から得た情報をもとに、連続殺人犯ジェイム・ガムの凶行をくいとめたという功績をこころよく思っていない、ある上層部の人間の思惑があったのだ。
 そんなさなか、クラリスはある麻薬の手入れで犯人である女性を射殺してしまうのだが、その一部始終がマスコミに報道されてしまったことからにわかに騒ぎは大きくなり、司法省がクラリスの聴聞会を開くまでに到ってしまう。だが、そんな彼女の窮地を救ったのは、一枚の藤色の手紙だった。「きみは戦士なのだよ、クラリス。きみは自分の望みしだいで、いくらでも強い人間になれるのだ――」それは七年前、五人の人間を殺してまんまと収容所から逃亡し、今もなおその足取りのつかめていなかったレクター博士本人からの手紙だったのだ……。

 こうして、読者の前に再びその姿を現わすことになった怪物ハンニバル・レクターであるが、本書のそのタイトルからもわかるように、本書の中心人物は間違いなく彼だと言えるだろう。前作『羊たちの沈黙』において、たった一度クラリスと話しただけで、彼女の心の奥底に隠された真実を見抜き、同じ囚人を言葉だけで殺してみせたレクター博士、残忍な連続殺人魔にしてたぐいまれなる天才――その圧倒的な存在感にいささかの揺るぎもないものの、イタリアで自由を謳歌するレクター博士のその姿は、連続殺人魔や怪物という言葉が持つイメージとは、何かそぐわないものを、あるいは読者は感じるかもしれない。

 ハンニバル・レクターは、けっしてたんなる悪人ではない。といって、正義の味方というわけでももちろんない。たとえ、そのように見える行動を起こしたとしても、それはけっして彼の正義感がそうさせたわけではない。少なくとも、世界の真実を誰よりも聡明に理解してしまっている彼は、この世に神の意志ほど無慈悲で凶悪なものはない、ということを承知している。彼の過去において、いったい何があったのか、何が彼を恐るべき殺人へと向かわせるのか、そして、彼が特別の興味をもって見つめるクラリス・スターリングに、何を見出そうとしているのか――もし、この怪物におよそ似つかわしくない人間味というものを感じることがあるとすれば、それは本書がレクター博士の嗜好、考え方、心理、そして過去の生い立ちといったものを表現していった結果、彼を確実に、生きた人間として仕上げることになったからだと言うことができる。

 悪人、ということでは、レクター博士よりもよっぽど悪辣な人間が、本書には数多く登場する。かつて、レクター博士の策略によって生きながら顔面を犬に食われた食肉加工会社の経営者、メイスン・ヴァージャーなどは、その最たる例だろう。豊富な資金源と蛇のような執念でレクター博士を追いつづけ、彼にとってもっとも屈辱的な復讐を成し遂げようとするメイスンは、そのために何人殺そうと、また誰を不当におとしめようとも、何の痛痒も感じることはない。ある意味で、メイスンもまた「怪物」と称することができるだろう。だが、レクター博士が「怪物」たるゆえんは、例えばメイスンのように、復讐というおよそ人間くさい感情から生まれてきたわけでも、またポール・クレンドラーやリナルド・パッツィのように、醜いエゴや金のために平気で正義を売るような、そんな低俗な欲望から生まれたわけでも、もちろんない。ハンニバル・レクターの思考がすでに、正義や悪といった、きわめて抽象的な、人間にとって都合のいい枠組みを超越した孤高の領域にあることは、本書に出てくる彼の荘厳な「記憶の宮殿」を見ても明らかだ。そして、孤高ということに関して言うならば、訓練生時代から何の後ろ盾もなく、自分の所属するFBIという組織にも蔓延している愚劣な闇取引に辟易し、神の無慈悲に絶望しながらも、それでもなお前進することをやめようとしない、クラリス・スターリングの孤高と通じているとも言えるのだ。

 ハンニバル・レクターとクラリス・スターリング――正反対でありながら、どこかで非常によく似通った精神をもつふたりが、あまりにも人間臭い思惑を抱いた者たちの策略によってふたたびあいまみえる時、レクター博士は長年の願いであった、時間の必然をねじまげるという、神に対する挑戦を実現させ、そして究極のところにまで追いつめられたクラリスの精神は、彼の手の中で静かな眠りの時を迎えることになる。

 自分はいったい何者なのだろう? これまでに、だれがいったい自分の価値を認めてくれただろう?

 早くに両親を失い、人よりも強く誰かからの愛情に飢えていながら、そのことを自分自身に嘘をついてまで隠しつづけ、たったひとりで生きてきたクラリスが、最終的にハンニバル・レクターによってその心の空隙を埋められることになる、というのは、なんとも皮肉でありながら、まさにその以外の決着はありえないという絶妙なものだと言えよう。レクター博士が彼女のために用意したそこは、普通の人間が立ち入る隙などまったく存在しない、ひとつの永遠とも言うべき場所であり、ある意味で人間であることを超えてしまった二人にとって、もっともふさわしい場所なのだから。(2000.07.07)

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