【新潮社】
『花宵道中』

宮木あや子著 



 遊女のまことはウソの別名、という言葉がある。江戸時代、遊郭で春をひさぐ遊女にとって、快楽に溺れる姿も、事を終えた客を名残惜しそうに引き止める言葉も、さらには自身が遊郭に売られてきたときの「薄幸な身の上話」にいたるまで、すべてが遊郭におけるお約束、あくまで虚構でしかない、ということを指すものであり、たしかに性のプロたるべく訓練を受けた遊女たちが、客の相手をするたびに快楽に溺れていては身がもたないのも事実である。しかしながら、遊女たちのつくウソというのは、そこに相手を騙そうという悪気があるというよりは、あくまで客の「恋人」であるという役割を演じることで、かりそめの恋愛を楽しんでもらうためのプレイだと考えたほうが妥当だ。遊女の中でもとくに高級な遊女たる花魁ともなれば、たんに春をひさぐだけでなく、諸事芸能や教養といった部分でも秀でていたと言われているが、それは性だけでなく、ひとりの恋人として客を楽しませるという意図があるからこそのものである。

 遊女は快楽をコントロールするプロであり、その点に関しては常に指導権を握っている。つまり、女の体は金で買えるが、快楽は金があってもどうにもならない、ということでもあり、そこに遊女と素人女の違いが出てくる。それゆえに、遊女を相手にする男にしても、いかにして相手を快楽に溺れさせるか、という一種のゲーム感覚が生まれてくるのは必然であって、そんな男の客は「通」であるという美学さえ生じてくることになる。だが、いくら虚構を楽しんだところで、虚構は虚構でしかない。遊女の演技にまんまとはまってしまう男は「野暮」であるが、少なくともそこには、相手のことを好いたという真実の気持ちがある。それは、遊女という立場においては迷惑でしかないのかもしれないが、そこからひとりの女に立ち返ったとき、まぎれもないその恋心は、他の誰でもない、自分という個に向けられたという意味で、特別な色合いを帯びてくるものである。

 この男もきっと、目を瞑って愛しい人を思いながら、他の女を抱くのだ、と。名前を呼んでも届かぬ人に呼びかけ続ける、男だとて自分と変わらぬ立場なのだ、と。

(『薄羽蜉蝣』より)

 本書『花宵道中』は、表題作をふくめた五つの作品を収めた短編集という形をとっているが、いずれも江戸吉原の遊郭のひとつ、山田屋の遊女たちに焦点をあてている、という意味で短編どうしがつながりをもっている。総籬をもたない小見世――高級遊女をかかえる大見世ほど気位は高くないが、風呂屋で一発五文で春を売る鉄砲女ほど落ちるわけでもない、良くも悪くも中途半端な遊郭の座敷持ちである彼女たちは、しかし本書のなかでは性のプロとして客との虚構の恋愛を演じる遊女でありながら、ひとりの女としての自分を完全に捨て去れるほど割り切ることもできずにいる。そしてその葛藤はたいていの場合、特定の男との恋に溺れるという形をとって表面化することになる。

 女としての自分、という表現を用いたが、おそらく近世の日本という時代において、女として生まれるということは、それだけで個としての自分自身を確立することがこのうえなく難しいものだったと想像するのは容易である。男にとって女とは、結婚と出産の相手であるか、そうでなければ性愛と快楽の相手という認識が圧倒的であったし、逆に言えば、特定の男という相手がいて、はじめて女はそこから女としての個性を見出していく、ということでもある。

 もしかしたら、今ではあたり前のように謳われている自我の概念というのは、そうした近代的考えのなかった近世の女たちのなかでは、意識することさえ難しいことだったのかもしれない。だが、それでもなお女が女としての自分というものを考えるとき、そこにあるのは自分が誰に惚れるのか、という気持ちだ。表題作である『花宵道中』の朝霧は、もとは京都の染物職人だった半次郎と出会い、想いを寄せていく。それは、吉原が大火で焼けてしまい、焼け出された朝霧たちが深川八幡に仮宅をかまえていたからこそ実現した出会いであって、本来であればふたりは、遊女とその客という形でしか会うことが許されなかったはずである。

 言うまでもないことであるが、本書の遊女たちに自由はない。私たちが人間として唯一自分のものとしてもっているものは、心と体くらいであるが、遊女の場合、体は売り物にすぎないし、心もまた遊女という虚構を彩るものでしかない。少なくとも本書に登場する遊女たちは、まぎれもない自分自身と言えるものが、ほとんどないという立ち位置にいる。とくに朝霧の場合、吉原で生まれ、吉原以外の世界を知らない女である。女としての幸せはもちろんのこと、誰かに惚れるという感情すら実感のないまま、あたりまえのように遊女として生きてきた。それゆえに、半次郎との出会いで起こった自身の心の変化は不意打ちにように彼女を襲い、心を乱していく。そして、それが惚れるという「野暮」なものであったことに気づいたとき、そもそも自分の自由にできるものなど何もない、という状況は、だからこそ辛く、哀しい。

 彼女たちにとって、できるのは男の愛撫に反応し、快楽に身をまかせることだけなのだ。性を売り物にし、快楽をコントロールする術を知る遊女の、それがまぎれもない女としての自分自身のすべでであり、そういう方法でしか惚れた相手に応えることができないというその一点が、本書がエロティックでありながらも、どこか儚い情緒を漂わせることになる。

 どうせあたしは見合いもできぬただの女郎。年季明けまでまだ五年、年季があければただの年増になる、ただの女郎。そしてあんたはただの髪結い。どうして其処で足を留めておいてくれなかったのか。

(『十六夜時雨』より)

 客にとって遊女はあくまで遊女でしかなく、代わりはいくらでもいる。そんなふうに割り切ったうえで、お互いが虚構としての恋人を演じ、楽しむのが「通」だとされるが、本書のなかに「通」としての情事は、けっしてメインとして書かれることはない。むしろ、相手に惚れてみっともなく取り乱したり、一緒になりたくとも遊女としての身の上ゆえにどうにもならず、果ては逃亡を図ったり、自らの命を投げ出したりさえする「野暮」で愚かしい行為が、この物語の中心にある。それはたしかに遊女の物語ではあるが、それと同時に女としての自分自身を、誰かに恋をするということで見出そうとした、まぎれもないひとりの女としての物語だと言うことができる。名もなき遊女たちの、けっして果たされることのない恋を生き生きと描いていくことに成功した本書には、あるいはもっとも純粋な恋愛の形が秘められているのかもしれない。(2009.11.13)

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