【文藝春秋】
『花まんま』

朱川湊人著 
第133回直木賞受賞作 



 人は死んでしまえばそこですべてが終わってしまう。死んだ人間は何も感じないし、何も考えたりしない。喜んだり怒ったり、悲しんだりといった人間的な感情は、あくまで生きている人間のものであり、死者はそうしたものとは次元の違う場所にいる。それゆえに、葬式や回忌をはじめとする、死者に対して何かを成そうとする行ないは、死者のためというよりは、むしろ残された人たちのためのものだと言うことができる。

 未知のものを本能的に怖れる人間にとって、死というのはその最大のものである。死んだ人間がどうなるのか、その真実を知っている人間は誰もいない。あたり前といえば、あまりにあたり前のことであるのだが、だからこそそこには、人々の想像力の入り込む余地が発生する。人の死というのは、その身近にいる人たちにとっては悲しい事件であるが、死んだ当人とは違って、彼らはまだ生きてこの世に存在しており、そうである以上、生きて生活していかなければならない。そしてそのためには、死者は死者として、とりあえずの決着をつけなければならないということを意味する。だが、当然のことながら、誰もがそんなふうに身近な者の死を、「死」というひとつの区切りで割り切ることができるというわけではない。

 本書『花まんま』は、表題作をはじめとする六つの短編を収めた作品集であるが、いずれの作品にも共通しているのは、そのテーマとして人の死をとりあつかっているということであり、その視点が生者よりも、むしろ死者のほうに重点を置いているという点である。そしてそこには、死んでしまった人間に対する一種の愛情がある。

 たとえば表題作である『花まんま』の場合、テーマとしてあるのは「生まれ変わり」である。一人称の語り手である俊樹にはフミ子という妹がひとりいるのだが、四歳の頃に高熱を出して病院に運ばれてから、それまでとはガラリとその雰囲気が変わってしまう。妙に大人びた言動をとるようになり、他人の心配をよそに勝手に外に飛び出していったり、同世代の友人が当然もつべき流行にてんで興味を示さなくなったり――何をしでかすか予測できないということで、俊樹はしばしば妹のそばについていなければならなくなるのだが、ある日、フミ子は自分が繁田喜代美という女性の生まれ変わりだと俊樹に告白する。彦根という町のデパートでエレベーターガールをしていた彼女は、二十一歳のときにエレベータに乗り込んできた客に後ろから刺されて殺されたのだと語るフミ子に、はじめは相手にもしていなかった俊樹だったが、フミ子のそのあまりに強いこだわりように、ついに彼女とともに彦根の町にまで行ってみることにする。

 死んだ女性の意識がこの世に存在するとして、それがべつの女の子の体に乗り移って、本来あるべき意識を変質させてしまうということがありえるとすれば、それは生きている人にとっては理不尽きわまりない現象であると言える。だが、本書の主要なテーマが死者そのものにあるとすれば、話は別だ。じっさい、それ以外の短編についても、かならず人の死というものが密接にかかわりをもつ展開となっていて、たとえば『トカビの夜』は、一昔前の文化住宅の一室に住んでいた朝鮮人の兄弟のうち、病弱だった弟のチェンホが作中で死んでしまうし、『摩訶不思議』については、語り手の叔父にあたる「おっちゃん」の葬式が終わり、火葬場へと霊柩車が向かっているときに起こった奇妙な出来事をあつかっている。『送りん婆』は、言霊をもちいて臨終間際にいる人を苦しみから解放し、安楽にあの世へ送るという不思議な仕事をする女性が出てくるし、『凍蝶』では死んだ弟が蝶になってその臨終を知らせてくれたというエピソードが出てくる。

 いずれの短編についても、ともするとホラーとしても通用するような、人智では説明のつかない不可思議な出来事について語った作品であるのだが、常に死者を中心にして展開していく本書中の短編に登場するのは、人々から差別を受けていたり、低所得でわけありの労務者であったり、あるいは売春婦といった、否応なく社会からはみ出してしまった人たちであることが圧倒的に多い。そして、本書ではいずれも昭和の高度経済成長期あたりの大阪を物語の舞台として選んでいるのだが、それは科学技術の進歩が人間の生活を向上させると信じて疑わなかった華々しい時代、光溢れる人間社会のなかにも、アウトローとして社会からはみ出してしまった人たち、言ってみれば社会の闇の部分が厳然として存在するという事実を、よりいっそう際立たせるからに他ならない。そして、そうした社会の底辺に否応なく追いやられてしまった人たちの鬱屈した精神、その奥深い哀しみと歪んだ心が、人の死と強く結びついているのが、じつは『妖精生物』という作品だったりする。

 すべての人間が幸せになれることなど、この世には、きっとありはしないのだ。誰かの幸せの陰には、必ず誰かの不幸せがある。幸せというものの多くは、たいていどこか歪んでいる。(『妖精生物』より)

 この作品だけが、例外的に人の死というものが直接的には出てこないのだが、その作品のなかで話題になっていた「コインロッカーベイビー」、新生児の遺体をコインロッカーに遺棄するという事件と、物語の最後で結びつくという形で、じつはこのうえなく人の死と絡んでいる。そしてそんなふうに考えたとき、本書の一貫したテーマとしてある「人の死」や「死者」を中心とする視点の意味が見えてくることになる。そこにあるのは、華々しい表の世界が放つまばゆい光に押しやられ、人知れず何の意味もなく不幸を背負って死んでいった人たちの存在に、何らかの意味をもたせてやりたいというひとつの意思だ。「生まれ変わり」をはじめとする、さまざまな不可思議な存在や現象が登場し、それが死者と強くかかわっているという点も、それで説明がつく。

 繰り返しになるが、死者は何も感じないし、何も考えない。死はそうした人間としてのすべてを奪ってしまうひとつの究極である。ゆえに、本書のなかでどれだけ死者に照準を当てていても、その照準はかならず死者をすり抜けて、その周囲で生きている人たちにぶつかることになる。そういう意味では、本書は人の死と生というものを、もっとも身近なものとして、等しく感じとることのできる短編集なのかもしれない。(2007.08.30)

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