【集英社】
『ハミザベス』

栗田有起著 
第26回すばる文学賞受賞作 



 もう私のような年齢の男性であれば、「家族」という言葉を聞いたとき、それは自分の父や母のことではなく、妻や子どもたちのことを指していると考える立場でなければならないのかもしれないが、幸か不幸か、いまだ独身男性である私にとって、家族とは遠く離れた実家にいる父や母、それに兄貴といった人たちのことを指すものである。私は誰かの息子であり、誰かの兄弟ではあるかもしれないが、誰かの夫ではなく、また誰かの父親であるわけでもない。だが、すでに長くひとり暮らしをつづけている私は、社会的に見れば、すでに家族の援助がなくても生きていける立場にあるとも言える。とりあえず住む場所があり、仕事があり、収入を得て自活できている自分――たしかに、血のつながりという意味で家族というものをとらえるのであれば、その関係は生涯切ることのできないものであるのかもしれないが、まだひ弱で、自分ひとりの力では社会に出て生きていくことのできなかった子どもの頃とは異なり、まがりなりにも自分の家族をもつことのできる、一個の独立した立場にいる今の私にとって、「家族」であるということのもつ意味は、まったく昔のまま変わらない、というわけにはいかないものでもある。

 これからは茶飲み友達でいこう。ときおり顔を合わせておしゃべりをし、笑い、それぞれの家に帰る。それぞれの家ができたからには、私たちはもう、親子でいなければならない必要はなくなったのだ。

(『ハミザベス』より)

 本書『ハミザベス』は、表題作のほかに「豆姉妹」の2作を収めた作品集であるが、いずれの作品に登場する「家族」も、いわゆる父親と母親とその子どもたちが、同じ屋根の下でいっしょに暮らしている、という意味での家族という形をとってはいない。「ハミザベス」では、夫と離婚して別居することになった母梅子と娘まちるのふたりだけで構成されている家族であり、「豆姉妹」ではその母親すら同居しておらず、七歳年齢の離れた姉妹ふたりでアパート暮らしをしている、という設定だ。

 ずっと昔、家族といえば大半が、祖父母、父母、子という三世代が同じ家に同居するという形だったという。それはたとえば、向田邦子の『寺内貫太郎一家』のような、なつかしくもにぎやかな大家族だ。それから家族の形は、祖父母を置いてきぼりにした父母と子という単位に縮小した。現在、世間一般で家族といえば、この「核家族」を指すのが主流だと思われるが、本書に登場する家族の単位は、「核家族」からさらに小さな単位へと移行している。そして、彼女たちにとっての「家族」という関係には、いわゆる美しい家族愛といった感情が混じることはない。

 そもそも、彼女たちには「家族だから」という行動原理がきわめて希薄だ。母親だから、姉だから、妹だから、こんなふうにあるべきである、という世間一般が押しつけてくる常識としての家族像からすれば、本書の登場人物たちが構成する「家族」の形は、ずいぶんとはずれた場所にあると言える。そこにあるのは、むしろ人並みの生活を営むためのパートナー、それぞれが足りないものを補いあって生きていくという関係であり、そういう意味ではきわめてドライな家族の形である。

 私は彼女の給料で学校に通い、住む場所と食べ物をもらっている。その対価として私は食事を作り、部屋を片づけ、洗濯物を干す。ふたりの生活ももちろん、ギブとテイクの上に成り立っている。たがいに義務を負っている。

(「豆姉妹」より)

 このような関係ときわめてよく似た家族の形として、私は恩田陸の『上と外』に登場する、千鶴子と千華子の母子を思い出す。この人生の荒波を乗り越えていくための、貴重なパートナーとしての子ども――どちらも家の中心となるべき「父」が不在、という共通項をもつ、このふたつの「家族」のなかで、本来は子どもとしてのびのびと、何不自由なく幼年時代を謳歌するという「子ども」としての役割を与えられなかった千華子もまちるも、ある意味親以上にしっかりした、ませた子どもとして成長した。ただ、違うところがあるとすれば、千華子があくまで両親が一緒である家族の形にこだわりつづけたのに対して、「ハミザベス」のまちるのほうにはそのこだわりがない、という点だろう。そもそも「父は死んだ」と聞かされており、父親のいる家族がどのようなものなのか、まったく体験していないのだから、当然といえば当然なのだが、それは逆にいえば、私たちがともすると縛られがちな家族という関係――血のつながりや家族愛とかいった、いかにも表面上は美しい関係から、すでに自由な立場にいる、ということでもある。

『ハミザベス』では、その死んだと思われていた父親が、まちるのためにマンションを残して死んだことを聞かされ、これを機にまちるがそのマンションで一人暮らしをはじめる、という話であり、『豆姉妹』では、それまで看護婦だった姉の永子がSMの女王となってしまい、それまで「歳の離れた双子」と言われ、すでに自分なりの姉の像を築いていた妹の末美が困惑のはてに、頭をアフロにする、という話である。どちらも奇妙に歪んだ、複雑な家族関係を材料にしていながら、けっしてありがちなドロドロとした感情がほとばしることもなく、むしろドライだからこそのユーモアに満ちている。そして物語のなかで、まちるも末美も、それぞれのやり方でそれまであった「家族」から自立しようとしている。とくに、『ハミザベス』のまちるのとる道は、考えようによっては相当に重い選択になるはずだが、当の本人はいたってあっけからんとしたものである。母親との会話もずいぶんと軽い。それはある意味で、すがすがしいくらいの態度だ。

 人間にとって家族を形成するというのは、間違いなく自分のアイデンティティを確保するための、ひとつの手段である。夫という立場、父親という立場――本書には、そんな家族というアイデンティティの拠り所からは、そもそも自由な場所に立っている女性たちの、真の意味での自立、まぎれもない自分と向き合っていこうとする姿が垣間見えてくる。(2004.05.23)

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