【東京創元社】
『バッキンガムの光芒』
−ファージングV−

ジョー・ウォルトン著/茂木健訳 

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 私たちはつねにあるイデオロギーが「常識」として支配している、「偏見の時代」を生きている、というのは、『寝ながら学べる構造主義』を書いた内田樹の言葉であるが、たとえ頭では理解していたとしても、実生活においてあるイデオロギーが、自身の言動を選択するさいにどれほどの影響力を行使しているのかを自覚するのは難しいものである。なぜなら、あるイデオロギーが「常識」として支配している状態というのは、人々がそのイデオロギーに則って行動することがあまりにあたり前になりすぎていて、自身がそうしていることを意識することすらなくなっている状態のことであるからだ。

 たとえば、私たちがあたり前のように行なっている「歩行」――右足と左腕、あるいは左足と右腕を振り出して歩くという方法が、近代以降に国が徴兵のために国民に教育を施すというイデオロギーの結果として「常識」となったという事実を、私たちがふだん意識することすらできないのを考えれば、その困難さが少しはわかるかと思う。そして言うまでもないことであるが、こんなふうに見えなくなってしまった「常識」というものほど、ある意味で怖いものはない。

 思想としては非常に便利であり、彼女たちのような上流階級の立場をしっかり守ってくれるけど、ファシズムは決して……。とにかく、すでにファシズムはみんなのものだった。もちろん、ユダヤ人は別だけど。

 『英雄たちの朝』『暗殺のハムレット』とつづいてきた「ファージング」シリーズ三部作の最後を飾る本書『バッキンガムの光芒』では、前二作より時代は大きく下って1960年、第二次大戦はナチスドイツがソ連に勝利するという形で終結し、その平和会議がイギリスのロンドンで開催される運びとなっている。言い換えれば、ファシズムというイデオロギーが、前二作の時代よりもさらに強固な「常識」としてイギリスでも浸透し、意識しにくくなっているということであるが、ここで登場する一人称の語り手のエルヴィラの置かれた、非常に微妙な立場に目を向けたとき、本シリーズの核ともいうべき部分――なぜファシズムが台頭するという歴史改変ものを、他ならぬイギリスという国を舞台として描くのか、という命題の一端が見えてくる。

 エルヴィラは、前二作においてカーマイケル警部補のよきパートナーであったロイストンの姪であり、彼の殉職後にカーマイケル自身が後見人となり、表面上は何不自由のない生活を送っている。それどころか、まるで貴族の娘であるかのごとく、社交界へのデビューを目前にし、さらにはオックスフォード大学への進学も許されているという、きわめて恵まれた環境のうちにいた。そしてその境遇の大半は、カーマイケル自身の功績によるところが大きい。彼は前作でナチス総帥とイギリス首相の暗殺を未然に防いだ英雄であり、またドイツのゲシュタポに相当する監視隊(ザ・ウォッチ)の隊長として、国への忠誠を表面上は貫いている。つまり、エルヴィラの「微妙な立場」というのは、本来は上流階級ではないものの、後見人のめざましい功績ゆえに社交界への仲間入りが許されている、という一点にある。

 かつては交戦状態にあったナチスドイツとの講和をとりつけ、イギリスという国を戦争から遠ざけたのは、「ファージング・セット」と呼ばれる貴族たちの集団である。その後、第一作における殺人事件を機に、この政治の中枢に陣取る集団は少しずつファシズムへの道をひた走ることになるのだが、その背景に、上流階級という、自分たちが属する身分が得ている既得権益を守りたいという打算があったと考えるのは容易だ。なぜなら私たち読者は、すでに貴族という身分がその力を失って久しい現実の世界を知っているからだ。そして、本書のこれまでの流れをとらえたときに、身分制度とファシズムとは非常に親和性があることを見て取ることができる。

 こうして、ファシズムと上流階級が結びついた強権的な闇と、その闇に対抗しようと奮闘する小さな勢力との戦いという構図が、シリーズを貫くテーマとして確立され、三部作を通じて登場するカーマイケルは、本書ではその闇に表面上は従いながら、裏ではその権力を利用して秘密の組織をつくりあげ、ひそかにユダヤ人たちを国外に逃亡させる手助けを行なうという、綱渡りのような活動をつづけている。だが、ある意味でファシズム世代の象徴でもあるエルヴィラは、後見人のそうした違法行為を知らない。この、お互いの「常識」のズレという小さな火種が、後の物語の展開における大きな伏線となっており、それゆえに物語の緊張感を維持させていくという手法は、前作以上に冴え渡るものがあるのはたしかだ。

 ファージングシリーズの最終巻である本書では、前二作で登場した意外な人物が意外な場面で登場し、その言動が物語に大きな影響をおよぼしたりといった、ひとつの物語としての集大成的な要素も見受けられるのだが、ファージング・セットによる独裁政治に対してどのような決着をつけるのか、という意味でも、まさに最終巻にふさわしい内容としてまとまっている。さらに言うなら、シリーズを通じて描かれてきたカーマイケルとジャックとの同性愛の行方についてもおおいに気になるところであるが、私たちが知る歴史上のファシズムについても、ユダヤ人だけでなくジプシーや黒人、同性愛者といった人たちも迫害の対象としてきたという事実を知っているがゆえに、このふたりの関係そのものが、すでにしてファシズムの闇に対抗する者の象徴として描かれていたのではないかと思わずにはいられない。

 誰にでも守りたいと思う人がいる。それは家族かもしれないし、恋人かもしれないし、何らかの同族であったり、か弱い者であるかもしれない。だが、個人が個人であることを厳しく規制するファシズムは、そんな人たちの絆すら破壊してしまうものであるし、そんな状態はあきらかにふつうではないことを、私たち読者はよく知っている。国があってこその国民なのか、あるいは国民あってこその国なのか――著者が本書のなかで導き出したその解答に、おおいに期待してもらいたい。(2012.06.10)

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