【徳間書店】
『白鳥異伝』

荻原規子著 



 生と死、破壊と再生、栄光と衰退――これらは、それぞれまったく正反対の性質をもつ、お互いに相容れることのない両極端でありながら、世の中の移り変わり、変化という側面においてはひとつの対として機能していることを、私たちは知っている。太陽がいったんは沈んでも、ふたたび空に昇ってくるように、月がいったんは欠けても、ふたたび満ちてくるように、そして季節がいったんは過ぎ去っても、ふたたび巡ってきて、枯れた草花もまた芽生えはじめるように、何かを壊す力と何かを生み出す力は、ふたつ対になることで、はじめて物事を変化させる原動力となる。破壊するだけでも、生産するだけでも駄目なのだ。

 本書『白鳥異伝』は、古代日本を舞台にした「勾玉」をめぐるファンタジーで、前作『空色勾玉』からつづく第二作目ということになる。タイトルのなかにある「白鳥」とは、私たちもよく知っているヤマトタケルの伝説のひとつ、彼の死後、その墓から飛び立って大和へ向かったとされる白鳥のことであり、本書が古代の英雄ヤマトタケルをモチーフにした、しかしけっして既成の価値観に左右されることのない、独自の世界観を結びつけることに成功した壮大なファンタジーであることは間違いないが、私が本書を書評するさいにとくに注目したのは、登場人物の遠子(とおこ)と小倶那(おぐな)の運命を大きく翻弄することになる「大蛇の剣」と、勾玉を連ねた「玉の御統(みすまる)」の力、そしてそれが意味するものである。

 剣とは、変転を断ち切るものなのです――この世の変転、命の変転。そして、それに対抗する勾玉は、逆に変転をおし進めるものです。生から死へ、死から生へ、変転していくことをうながすのです。

 物語の舞台となるのは、前作の神代の時代からはかなり下って、神々のほとんどは地上から姿を消した代わりに、人間たちが活動の中心を成している有史の時代。三野の国に代々つらなる巫女の家系である橘一族の娘遠子と、その母親真刀野(まとの)が捨て子だったのを拾って育てた小倶那は、血のつながった兄弟ではなかったが、それ以上に親しく――それこそ双子のように、何をするにも一緒の仲だった。ある日、輝の大御神の子孫がおさめるまほろばの国より大碓皇子がつかわされ、大巫女の占いどおり、大王の后のひとりとして遠子と同じ橘の娘である明姫が都に向かうことになる。橘の一族は、古くは闇の氏族の一系であり、荒ぶる輝の一族の心を静めることを使命とする一族でもあったのだ。

 奔放で勝気な性格で、とかく我を通さずにはいられないおてんば娘の遠子と、常に自分の意思や望みを押し殺し、遠子に守ってもらってばかりいた気弱な少年の小倶那――大碓皇子と驚くほど顔が似ているという理由で、彼の御影人としてともにまほろばの都に行くことを決意した小倶那は、そうすることで遠子が望むような強い男になりたいという、ひとつの願いがあった。そして大碓皇子という人物は、まさに小倶那が理想とする「強い男」そのものだった。だが、小倶那のその願いはまったく思いもかけない方面に彼自身を導いていくことになる。まほろばの都で自身の出自の秘密を知った小倶那は、代々王家に伝えられてきた「大蛇の剣」に魅入られ、その破壊の力を振るうことのできるできる皇子――短命の英雄「タケル」としての力を手にすることになってしまう。

 輝の氏族に属し、「大蛇の剣」の力をその身に秘めた少年と、闇の氏族に属し、その力を鎮める「勾玉」の力を宿す少女という図式は、基本的に前作と変わらない。だが本書の場合、そもそも神々の振るうべき恐るべき力を、たとえ神の血を引く一族の子孫であるとはいえ、こころならずもちっぽけな人間が身につけてしまうという意味では、前作よりもはるかに重いものがある。物語はその後、大王に叛逆した大碓皇子を逃がすために捕えられた小倶那が、「大蛇の剣」を振るうことのできる正統な皇子として、今度は大碓皇子の討伐に向かうという皮肉極まりない展開となり、心の拠り所となるものをもつことができないがゆえに、自身の意思とは関係のないところで発動した「大蛇の剣」の力は、結果として小倶那が尊敬さえしていた大碓皇子を殺し、さらには彼が強くなって帰ってくることを願っていた遠子の故郷や一族をも滅ぼしてしまうことになる。

 ひとりの人間にとっては、あまりに巨大すぎてもてあましてしまう「大蛇の剣」の力――それはただでさえ頼ることのできない立場にある小倶那を、さらにどうにもならない絶望のなかへと彼自身を追いつめていく。「タケル」という運命を背負わされた、悲劇の英雄、小倶那の姿は、その運命のあまりの重さに読んでいるこちらまでがいたたまれなくなってくる。そして彼に残されている、おそらく最後の希望たる遠子は、各地に散らばった橘の一族がもつという勾玉、「大蛇の剣」に唯一対抗することのできる力を求め、長い旅に出る。かつての幼なじみであり、今ではすっかり変わってしまった小倶那を、自分の手で滅ぼす戦士たらんという悲壮な決意を胸に秘めて……。

 はたして、お互いに惹かれあいながらも、人智を超えた力に引きずられるようにして対決することを運命づけられた遠子と小倶那を待っている結末とは? 本書はこのふたりを物語の中心にすえ、さらに物語の中盤で登場する、伊津母の国の橘一族に属する若者で、勾玉のひとつの持ち主でもある菅流(すがる)を橋渡しとして、どちらにも同じだけの比重を置いてその変化を描き出している。それは言ってみれば、ふたつの物語をひとつに凝縮しているようなもので、それだけ著者の登場人物に対する思い入れが深いことの証拠でもあるのだが、基本的に本書の登場人物は、敵役たるまほろばの大王や、その臣下たる宿禰(すくね)もふくめて心底悪人という人物がいない。誰もがどこかに弱さをもつひとりの人間として、物語のなかに確固たる存在感をもっており、その要素が物語にも深い味わいをもたらしている。過酷な運命に翻弄されながらも少しずつ成長していく少年少女の姿を描く、というテーマは前作と同様でありながら、その緊迫したストーリーと登場人物の造詣の深さは、まぎれもなく前作をしのぐ完成度を誇っていると言ってもいい。

 本書が少年少女の成長を描いた正統派ファンタジーであるという位置づけは間違いのないものであるが、小倶那にしろ遠子にしろ、じつはその成長、変化の兆しはなかなか現われてはこない。人智を超えた「大蛇の剣」の力に、当人の意思とは無関係に引きずられていく小倶那と、彼を滅ぼす「玉の御統」の力を誰よりも望みながらも、じっさいにその力を行使するのは菅流ばかりで、なかなかその力に近づくことのできない遠子――それはどちらも、変わることよりもむしろ変わらないことを望んでいるようにさえ思えるほど、頑ななものであるのだが、世界は常に変わりつづけていくのであるし、また変わらずにはいられない。

 だが、「大蛇の剣」も「玉の御統」も、人智を超え、時空を超えていく存在という意味では、不変の象徴のようなものである。ふたりがこの力に縛られているかぎり、ふたりはけっして現状を変えていくことはできない。本書における少年少女の成長とは、まさに不変の力から自らを解き放つことに他ならないのだ。そしてそのことが、ふたりが変化することを受け入れること、変わらないという頑なさから自身の心を解き放つへとつながっていく。

 変化するということは、自身が自然の一部であることを受け入れることでもある。変化することで失われるもの、そして変化することで手にするもの――それらをすべてひっくるめて、私たちは人間だということを、何より本書は指し示してくれる。不変であることから変化することへのダイナミズムを、少年少女の成長と恋愛というストーリーのなかに見事に織り込んだ本書を、ぜひ楽しんでもらいたい。(2005.12.27)

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