【集英社】
『蝿の王』

ウィリアム・ゴールディング著/平井正穂訳 



 エントロピーという単語を、ふと思い出す。もともとは物理学の用語で、物質を構成する分子または原子の配列や運動状態の、無秩序の度合いを示す量のことであり、「エントロピー増大の法則」などという言葉としてよく使われている。すべての自然現象は、秩序から無秩序へと変化していくというこの法則は、たとえるなら、私の今いる部屋が、放っておけばどんどんゴミが増え、埃がたまり、汚れていくのと同じことを示している。そういう意味で、私たち人間が生きて生活していくというのは、放っておけばどんどん増大していくエントロピーとの戦いでもあるのだ。

 増大していくエントロピーを小さくしていくためには、たとえば週に一度は必ず掃除をする、といった決め事をさだめ、かつその決め事を実行しつづけることが必要となってくる。私たちの暮らす社会にさまざまな法や規則が存在するのは、社会が無政府状態となるのを防ぐためであり、私たち人間が他の動物たちと違うのは、さだめられた法を自ら遵守することができるかどうか、という点にあるはずである。もしそうでなければ、いまごろ私たちの社会は崩壊し、私たちは獣のように、文明とは無縁の生を生きていかなければならないはずだ。

 本書『蝿の王』に書かれているのは、ひとつの実験だと言うことができる。それは、秩序がまったく存在しない場所に子ども達を放り込んだときに、増大していくエントロピーに対してどのように対処していくのか、という実験である。

 舞台は近未来、戦争の勃発によってイギリスから疎開することを余儀なくされた少年たちを乗せた航空機が攻撃を受け、太平洋上の無人島に不時着するところからはじまる。大人が誰一人としていない、世界から孤立したその無人島で、生き残った子ども達は、隊長として選ばれたラーフという少年を中心に一致団結し、救助が来るまでのあいだ生きのびようと決意する。だが、人間に害を成す動物が存在せず、果物などの食料は豊富にあり、しかも常夏の楽園であり、何かと自分たちを縛りつけようとする大人のいないその無人島の魅力は、少年達を無邪気な獣に変えるのに充分だった。一日でも早く島から救助されることを望み、そのために小屋を建て、食料を探し、合図の烽火を燃やしつづけ、集会のためにほら貝を吹き鳴らすラーフの想いとはうらはらに、少年達はそれぞれが勝手なことを行ない、なかなか本国の学校にいるときのような、秩序だった生活をしようとしない。勢いにまかせて巨大な焚き火を起こし、島の一部を火事にしてしまったり、何かと言うと豚を狩るといって森に入ってしまう、ジャック率いる合唱隊の存在、そして小さい少年達が口々にたてる、黒い獣の噂――まるで、秩序が無秩序にとって食われていくかのように、島は不気味な闇に覆われていき、内部抗争から発展したいさかいは、ついに恐るべき殺戮の舞台を無人島のなかに生み出すことになる……。

 本書はある意味、非常にわかりやすい構造をとった作品である。秩序と混沌――ラーフの持つほら貝に象徴される法と、山の頂上に君臨する「蝿の王」に象徴される無秩序との対立、という構図だ。ただ、ここで問題となるのは、秩序を維持しようと努力する少年を主人公に据えながら、著者は結果として、混沌が秩序を凌駕していく様子を描かなければならなかった、ということである。法の敗北――そこにあるのは、人間もまた動物の一種であり、道徳や倫理といった理論的な概念は、ある種の極限状態のなかではいともあっさり崩壊してしまうということであり、安易に力こそ正義、の歪んだ権威主義に走ってしまう私たち人間の、きわめて脆い精神状態なのである。ジャック率いる合唱隊が、自ら文明人であることを捨て、未開地の蛮人のように、顔に隈どりをほどこして狩りに明け暮れる、という行為は、まさにイギリス人が考える神のもとの秩序から、「蝿の王」という悪魔のもたらす混沌への転身なのだ。

 秩序と混沌、という言い方を、私はしているが、当然のことながら、秩序と混沌は、善と悪、あるいは光と闇という関係と無条件にイコールで結びつけられるものではない。秩序という概念が、あくまで人間という種が「人間らしさ」――つまり他のあらゆる生物たちとの違いを明確にするために生み出したものであるのに比べ、混沌は、人間によって名づけられ、区分けされたものを無に帰する力、人間の本能的な部分に宿る力である。本書において、ラーフたちが善、ジャックたちが悪だという区分けは、まったく意味がない。むしろ重要なのは、私たちの人間としての精神も、放っておくとエントロピーが増大し、他人への思いやりや想像力に欠け、責任をともなわない自由を押しつける混沌へと染まってしまう、ということなのである。そう、まるで彼らの着ている服が、徐々に薄汚れていき、そのことにさえ頓着しなくなっていくかのように。

「ぼくらはみんな押し流されているんだ。何もかも腐りかけているんだ。家にいたころはいつも大人がいたっけ。これどうしたらいいですか、先生……それですぐに答えてもらったもんだった。こんなときこそほんとうに!」

 こんなとき、大人がいてくれれば、自分が大人のようにものを考えることができれば、とラーフがしきりに望む場面があるが、その大人たちの築き上げた価値観が次々と崩され、自分たちのこれまでのものの考え方ではとうてい理解できそうもない現代の子どもたちの言動は、本来秩序を指し示してくれるはずの大人の存在を完全に見失い、混沌へと暴走していく島の少年たちの姿と二重映しとなっているように見えて仕方がない。そしてそれは、何も子どもたちに限った話ではないのだ。あらゆる意味で大人になれないまま、体だけ大人になってしまった子どもたちがいかに多いかということは、いまさら説明するまでもないだろう。

 考えること、悩むこと――現代を生きる私たちは、じつはそれほど悩んだりしなくても生きていけるし、そんな悩みを忘れさせてくれるような娯楽が世の中には溢れている。だが、考え、悩むことをやめてしまったとき、私たち人間と他の獣たちとを隔てるものの差は、どこにあると言えるのだろう。今、私たちの世界は混沌へと傾いているのだろうか? それとも、私たちには理解できない、新たな秩序の誕生をまのあたりにしているのだろうか?(2000.08.16)

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