【文芸社】
『はぁめるん』

藤本真伸著 



 人が人として生きていくために何が必要なのか、ということを考えたとき、それはけっきょくのところ、自分で自分を「人間だ」と認めることができるかどうかにかかっている。ある人たちにとっては、それはごくあたり前のものでありすぎて、わざわざ意識することすらない問題かもしれないが、別の立場の人たちにとっては、それは常に意識せざるをえない深刻な問題となっていることもある。そして、そうした意識の違いと、社会のなかに根強く残る差別の問題とは、けっして無関係ではない。

 過去の歴史をひもといてみると、どのような人々を人として認めるか――つまり、ひとつの社会が誰に人間としてあたり前の権利を与えるかどうかの判断は、時代の移り変わりによって変化してきた。たとえば以前、アメリカ大陸では奴隷制度というものがあり、アフリカから売られてきた黒人奴隷はその社会においては人間としての権利を認められていなかった。もちろん、今では法の名においてそうした差別の制度は撤廃されているが、皮膚の色の違いによる差別の感情は、今もなお深い社会問題となっていることを私たちは知っている。日本においても部落差別の問題は、今も根強く残っているもののひとつであるし、国によってはいまだに身分制度のようなものが社会的に認められているところもあるくらいである。同じ人間であるにもかかわらず、人種、宗教、身分、あるいはその身体的特徴といったものの違いによって生じる差別意識というものは、なかなか根絶することの難しいものであるが、いずれの差別問題においても共通しているのは、差別される側の人たちが、自分たちもまた「人間だ」という意識を常に持ちつづけ、そのことを声に出して訴えてきたからこそ、問題として表面化していった、という点である。

 本書『はぁめるん』という作品世界の設定は、言ってみれば逆転的発想の賜物である。それは、とある事情によって身体障害者の数が激増し、それにともなって社会が彼らを優遇する制度を確立させていった結果、マイノリティとなった健常者たちが、マジョリティたる身体障害者たちに、逆に「身体余分者」として差別されるようになった世界である。つまり、この世界において「健常者」とは現実世界における身体障害者を指し、「身体余分者」とは現実世界における健常者を指しているわけだ。本書の語り手である「僕」は、そんな「身体余分者」に対する差別の圧力が、なかば公然のものとして社会に大きな影響をおよぼしている世界に生まれた「身体余分者」であり、物語はそんな彼のたどることになる悲劇を描いたものである。

 本書の大きな特長が、五体満足な健常者であるがゆえに、逆に差別されることになるという、言ってみれば「健常」であることの基準値そのものをシフトさせることによって生じた逆差別の構造であることは間違いないが、それはたんに、現実世界における差別のベクトルを逆にした以上の変化を、本来であれば引き起こすはずのものである。なぜなら、現実世界におけるマイノリティたる身体障害者は、健常者であれば当然持っているはずのさまざまな身体機能が何らかの理由によって失われている、という意味で、普通に生活していくために機械や他の誰かの力を多く必要とする弱者であるのに対し、本書の世界における「身体余分者」は、「健常者」と比べて身体的なポテンシャルの高い存在という意味で、ある種の強者――「人外」的能力者であるからである。

 登場人物たる「僕」は、小学校にあがる時期になると、「身体余分者」たちばかりを集めた全寮制の養護学校に入れられることになる。そこで出会った同級生は、体が大きくて少し情緒不安定なところのあるマサル、体が小さくて内向的なシンジ、しっかり者ではあるが、どこかロマンチストな一面も持ち合わせているキョウコの三人のみ。それは、マイノリティというにはあまりにも少なすぎる人数であるが、その非常に限られた世界のなかで、しかし彼ら四人はそれなりに充足した今を生きている。その姿は、もちろん彼らが小さな子どもに過ぎないというのもあるが、とても「強者」と呼べるようなものではない。だが、それはあたり前のことなのだ。本書における「身体余分者」の子どもたちは、他ならぬ現実世界を生きているマジョリティたる健常者の姿なのだから。

 偶発的に腕を切り落とされれば健常者となり、社会に受け入れられるというのは僕たちには理解不能な話だった。身体余分者が普通の人間ではないと社会が宣言しているとしか僕たちには思えなかった。

 先に悲劇と書いたように、この物語には怖ろしいまでに救いというものがない。自分たちが、幸せになるべき当然の権利を有する「人間」であることを社会的に封じられている「身体余分者」――それは、「僕」をはじめとする登場人物たちの大半が、両親からさえも見放された存在であること、まだほんの子どもでしかなく、しかも仲間と呼べる者たちがほんの数人しかいないことから起こった悲劇である。そのラストにおいて、はたして「僕」が救われたのかどうかは、おそらく読んだ人によって意見が分かれるところだろうが、少なくとも私の個人的な意見としては、本書のなかの登場人物の、誰ひとりとして救われてはいない。はたして、誰が悪いのか。いや、そもそも誰が悪いという問題なのかどうか。そんなやるせなさと儚さを感じさせずにはいられない内容の作品である。そして、儚いがゆえに、このうえなく残酷な物語でもある。

 人はひとりでは生きられない。それは身体障害者であろうと健常者であろうと同じだ。たしかに五体満足である分、身体障害者よりも多くのことを自分ひとりの力でできることはたしかであるが、そのことと、人がひとりで生きていけるということとは、まったくの別問題である。自分以外の誰かに必要とされていることが、何より自身を「人間だ」と認めることの原動力となるのであれば、社会的に誰にも必要とされないことを、成長するにつれてどうしようもなく認めざるをえなくなった「僕」の末路が、やはりどうしようもなく悲劇にしかならなかったとしても、それはたしかに不思議なことではないのかもしれない。たが、そうとわかっていても、哀しい。あまりにも哀しすぎる物語であることだけは、たしかなことである。(2006.01.07)

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