【双葉社】
『ハードボイルド・エッグ』

荻原浩著 



 読んだ本や漫画にすぐ影響されてしまうというのは、小さいころからの私の悪いクセであり、じつは今もなお治せていないところがあったりする。物語の主人公になりきってポーズを決めたり、それらしいセリフを披露したりして、自分だけの世界に浸るというのはけっして悪いことではない。だが、それはあくまで頭のなかだけで済ます、という条件つきだ。いったんそうした妄想が他人の目にさらされると、とたんに自分の言動がリアルではどれほど恥ずかしいものであるかを痛感させられて、なんともいたたまれない気持ちになったり、あるいは現実の手痛いしっぺ返しをくらったりすることになる。

 現実というのは非情なものだ。自分はけっして物語のヒーローのように強くもなければ、気の利いたセリフで余裕を見せることもできない。自分の理想としていることと、現実の自分の有り様とのギャップというものは、年齢とともに、あるいは精神的な成熟とともに、いつしか等身大の自分寄りの方向で少しずつ埋められていくものだと思っていた。つまり、より現実的な自分というものを受け入れて、人は生きつづけるものだと。それはある意味では正しいし、私自身もそういう方向性で「成熟」しつつあると言えなくもない。少なくとも、以前ほど無理して自分を演じるという傾向はなくなりつつあるのだが、それでもなお、現実における自分のふがいなさ、格好悪さを脳内物語によって補正しようという傾向は、ときに私の意識の不意を突くようにして立ち上がってくることがある。

 そういう意味で、本書『ハードボイルド・エッグ』に登場する「私立探偵」を、少なくとも私は嘲笑することはできない。なぜならそこに描かれているのは、思い通りにならない現実に対して精一杯虚勢を張って生きていこうとする男の姿であり、そこには「やせ我慢の美学」とも言うべきハードボイルドの真髄が、たしかに太い芯として貫かれているからである。

 生き続けていれば、避けては通れない道の前に立つことがある。いまの私がそうだった。ハードでなくても、生きる資格に欠けていても、私は生きていかなくてはならない。

 上述の引用は、チャンドラーの書いたハードボイルド小説の主人公、フィリップ・マーロウの有名なセリフ「ハードでなくては生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」を意識したものである。そう、本書の語り手である最上俊平は、そのマーロウに憧れるあまり、自分は彼のような探偵になるべくして生まれてきたと思い込んでいる三十路男だ。出版社とは名ばかりの英会話教材のセールス会社を辞め、探偵学校に通い、何を血迷ったのかいきなり事務所を借りて私立探偵を開業して三年、彼が思い描いていた「危険な犯罪捜査も辞さないタフな私立探偵」とは裏腹に、迷い込んでくるのは動物探しや浮気調査といった依頼ばかり、といったなんとも冴えない状態が続いている。

 冒頭でのいかにもハードボイルドチックな展開――訳ありの家出少女の捜索を思わせるシーンが一変して、じつは十三歳の老メス猫を探していただけという話の流れからもわかるように、一人称としての彼のなかでは、冴えない現実をなんとかしてハードボイルドに決めようとするフィルターがことあるごとにかかっている。そして、本書の大きな特長のひとつとして、彼の脳内ハードボイルド世界と、あくまで客観的視点からとらえた現実とのギャップのおかしさというのがある。皮肉を交えた言い回しをすれば「喋り方がヘン」と言われ、バーで女性にカクテルをおごれば睨み返される。あげく、この現状を変えるために美人の秘書を雇おうとしたところ、やってきた片桐綾は明治生まれの老婆で、しかも追い出そうとする彼の攻勢をのらくらとかわしつつ、ちゃっかり秘書として事務所に居ついてしまうというしたたかさを見せるのだ。

 ハードボイルドに決めようとすればするほどその理想からかけ離れてしまうというある種のおかしさは、当の本人が真剣であればあるほどその破壊力は増す。そして残念なことに、彼のマーロウに対する憧れだけは筋金入りのものだ。もちろん、ハードボイルドの主人公というポジションは、そうなろうとしてなれるようなものではない。くり返しになるが、ハードボイルドとはやせ我慢の美学だ。主人公の私立探偵は、もともとそうなることを目指していたわけではなく、そうならざるを得ない事情というものを過去に抱えている。もっと楽に、もっと世渡り上手に生きていければそれに越したことはないはずなのに、彼の抱える何かがそうすることを許さない。だからこそその生き様が格好いいものとなるのだが、本書の語り手の場合、彼の目指すハードボイルド気質は自分を見つめなおした結果というよりは、現実の冴えない自分から目を背けるための手段という側面が強い。

 本書を読み進めていくとわかることだが、彼は小さいころはいじめられっ子で、図書館で出会ったチャンドラーの本を読んでその主人公たるマーロウの生き方に強く感化された結果、その状況にかろうじて耐えることができたという過去がある。そう、けっきょくのところ彼のハードボイルドは虚構の世界からの借り物でしかないのだ。だが、たとえそれが借り物でしかなかったとしても、そこから今の今までその信条を捨てず、あまつさえ私立探偵の事務所を開いてしまう人間は、そうそういない。たいていは、人生のどこかで現実と妥協して、ごく普通の――しかしけっして一筋縄ではいかない生き方に甘んじてしまうものなのだ。

 彼はけっしてタフな人間ではない。肉体的にも、精神的にもだ。背丈はあるが喧嘩はまったくの素人だし、ヤクザに絡まれればいともたやすくすくみ上ってしまう。昔のいじめの影響で鍵のかかった暗い部屋にいることができないし、同じく過去のトラウマで昆布と蟹が食べられない。まして、本物の死体に遭遇したときなどは、あれだけ嫌っていた警察にあっけなく連絡してしまう。そのくせ、その事情聴取の席ではなけなしのハードボイルド気質を発揮して強がってみせたりする。どう見てもカッコ良くはない。誰よりもタフに生きたいのに、どうしてもそうできない人間としての弱さ――じつはこの理想と現実とのギャップという視点は、語り手だけのものではなく、およそ登場人物のほとんどがかかえている問題であり、それこそが本書の大きなテーマとなっていることが、読み進めていくと少しずつ見えてくる。

 駄々をこねるようなつまらない意地だが、いまの私にはつまらない意地しか残っていなかった。もしそれを手放してしまったら、自分には何もなくなってしまうような気がしたのだ。本当に何も。

 彼を取り巻くあらゆる状況が、その理想からかけ離れていくという運命のなかで、はたして彼は、目指すべきハードボイルドな私立探偵に少しでも近づくことができるのか、あるいは今回の事件は、彼のなけなしの「意地」すらへし折ってしまうことになるのか。それは本書をじっさいに読んでぜひともたしかめてもらいたいところであるが、少なくともこの物語のなかには、非情な現実に四苦八苦しながらも、なんとか自分の望む道を探り当てようとする男の姿がある。人は誰もがハードボイルドに生きることはできない。だがどれだけその姿が格好悪くとも、私たちは彼のなかに、たしかなハードボイルドを見いだすことができるはずである。(2014.02.26)

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