【講談社】
『幸福な食卓』

瀬尾まいこ著 
第26回吉川英治文学新人賞受賞作 



 家族とは何なのか、ということを考えるとき、私が思い出すのは柳美里の初期のころの作品である。『フルハウス』にしろ、『家族シネマ』にしろ、そこに描かれているのは、すでに家族としてのつながりが崩壊し、お互いがそれぞれ別の居場所を見つけて生活しているにもかかわらず、何らかの事情でひとつ屋根の下で生活をともにしなければならなくなった家族の姿であり、表面上はいかにもな「家族団らん」を演じていながら、家族の心がこれ以上ないくらいにバラバラになってしまっている悲喜劇を、冷めた視点で書きあげている。そして、これらの作品を読んでいくと、家族が家族でありつづけるために必要なものは、血縁関係でも、生活を共有する時間の長さでもない、というひとつの事実が浮かび上がってくる。

 恋人や友人という関係は、その気になれば容易に解消することはできるし、夫婦関係にしても、重要な結びつきであることはたしかだが、それでも変えられないというわけではない。だが、親子関係という血のつながりは生まれながらに決定づけられた事実であり、個人の力でその事実をどうこうできるものではない。柳美里の作品は、私たちがとかく誤解しがちな血縁関係=家族という構図に対して異議申し立てをすることで、読者に「家族」というつながりについて、その本質を考えさせることをうながしていると言うことができる。

 たとえ血のつながりがなくとも、立派に家族として成り立っているケースを私たちは知っているし、同じ屋根の下で暮らしていながら、まるで他人のようにお互いがお互いに対して無関心な、冷め切った家族のケースがあることも知っている。家族が家族であるために本当に必要なものは、いったい何なのか――本書『幸福な食卓』は、ある意味柳美里の初期作品の対極に位置する物語であるが、その底辺では共通するものを抱えている。それは、どちらも「家族」という、ありきたりであたり前のように成立している関係性について、あらためてその意義を問いただしていく、という方向性である。そして、そんなふうに本書を定義していくと、本書の冒頭における父親の宣言が、たんなるインパクト以上の、重要な意味を帯びてくることになる。

「父さんは今日で父さんを辞めようと思う」

 本書は中原家というひとつの家族を中心に展開していく連作短編集という形をとっており、四つの短編にもそれぞれタイトルがふられているものの、時間軸は短編間を連続しており、また語り手も佐和子で固定していることから、すべてをひっくるめてひとつの作品としてとらえることもできる。そして、中原家の父親の父親放棄宣言は、それまでかろうじて「家族」という形態をとっていた一家四人のつながりが、事実上「同じ家で生活する集団」という関係へと移行する、最後の一押しとして機能する。

 じっさい、物語の最初の時点で、母親は一年前に家を出て別居状態にあるし、語り手の佐和子はまだ中学生であるが、兄の直は高校卒業後、無農薬野菜を育てる農業団体で働いており、いちおう社会人として自立した立場にある。父親の宣言にもとくに動じる様子もない直は、あくまで飄々とマイペースに生きており、家族という関係からはある程度距離を置いているようなところすらある。すでに家族として不自然な部分があると言えば、そのとおりだとしか言いようのない、奇妙なズレのある家族なのだ。

 母親がいなくなってもなおつづけられていた、家族全員がそろって食べる朝食――その不自然さを充分認識していながらも、しかし家族としての習慣だからという理由でつづけられてきた朝食の席に、父親であることを放棄した父親がつかなくなる。しかし不思議なことに、そのことで何かが劇的に変化したのかと言われると、じつはそんなことはない。父親が父親を辞める前も、その後も、同じように日常はつづいていく。佐和子は高校受験のために塾通いをはじめ、そこで知り合った男の子と恋をするし、直は直で晴耕雨読の生活を淡々とこなしつつ、佐和子と同じように好きになった女性のことで年相応の苦悩をかかえこんだりしていく。母親は家にはいないが、離婚したというわけではなく、お互いに頻繁に行き来するという関係も変わらない。

 父親はそれまで勤めていた中学の教師という仕事をやめ、なぜか薬学部への入学に向けて勉強を始めたが、それが父親をやめるということとどのような関係にあるのかと言えば、それはおそらく、父親が中原家の父親ではなく、中原弘というひとりの人間として生きることの意思表明である。仕事を辞めるという選択は、たんに収入を得て生活するための手段を放棄すると同時に、父親として家族を養うという役割の放棄でもある。そして彼にとって、前者よりも後者のほうがより大きな意味をもっていることは間違いない。なぜなら、父親にしろ直にしろ、最終的に別居することになった母親にしろ、世間一般でいうところの「家族」としての体裁をたもちつづけることに、どうしようもない無理が生じていることに気づいているからである。

 柳美里の初期作品と本書が、ともに「家族」として機能しなくなった一家を描いていながら、前者が壊れたものをふたたび元に戻そうとする違和感をテーマとしているのとは逆に、後者の場合、家族の崩壊というよりは、「家族」という束縛からの解放を強く意識させるものとなっている。だが、そのことで一家の心がすでにバラバラになってしまったわけではなく、どこかできちんとつながっている。佐和子はいつまで経っても弘のことは「父さん」と呼ぶし、直のことは「直ちゃん」と呼ぶ。それは、家族だった昔からそうだったし、父親が父親をやめたところで、そうそう変えられないことでもある。そうした一家の、中原家というつながりをさりげなく感じさせるのが著者の力量であることは間違いないし、だからこそ本書もまた、家族が家族であることの意味を読者に考えさせるのである。

 家族は作るのは大変だけど、その分、めったになくならないからさ。あんたが努力しなくたって、そう簡単に切れたりしないじゃん。だから、安心して甘えたらいいと思う。だけど、大事だってことは知っておかないとやばいって思う。

 自分がそこに、あたりまえのようにいてもいい場所、ありのままの自分でいることが普通に許される場所――それは、自分以外の人間が多くいればいるほどその居場所を確保しつづけるのが困難になってくるものだ。そんなふうに考えると、「家族」という関係でつながっていられることが、とんでもない奇跡のようにさえ思えてくる。そんなささやかな、しかしこの上なく大切なことをぜひとも感じとってもらいたい。(2007.02.11)

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