【新潮社】
『スズキさんの休息と遍歴』
またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行

矢作俊彦著 



 本の近現代の歴史や思想の流れについて知りたいと思ったとき、一番てっとり早くて確実なのは、各社新聞のダイジェスト版を調べてみることだが、昭和30年代から40年代にかけての約20年間に、しばしば登場する抗議デモ――日米安保条約改定への反対運動をはじめとする、いわゆる全共闘世代の人たちが起こした激しい抗議デモに関する記事の頻度と、その扱いの大きさを考えたとき、その思想や行動に対する是非はともかくとして、戦後、連合軍による統治下から経済的な復興をとげるとともに、徐々にアメリカ寄りの体制を整えていくことで、逆に経済大国であること以外に何ひとつ誇れるものがなくなってしまったように思える日本の姿に憤る者たちがいて、それぞれが理想とする革命のために国家権力と闘っていた時代がたしかにあったのだ、ということを実感する。

 全共闘世代と呼ばれる人たちのことについて、私はとくに詳しい知識を持っているわけでもなく、またマルクス主義を語れるわけでも「赤旗」を購読しているわけでもないが、ひとつだけ言えることがあるとすれば、それはソ連という超大国が、すでに過去のものとなってしまったのと同様に、国家を相手に闘争することが戦後日本を変えることにつながると純粋に信じることのできた時代もまた、すでに過去の遺物となって葬り去られてしまった、ということだろう。日本の政治体制は、まったく変わってはいない。そういう意味で、革命は頓挫し、彼らは敗北したとも言えるだろう。そんな彼らの姿、彼らの闘いを第三者の目で眺めたとき、かつて近代化と合理主義の名のもとに駆逐されていった騎士道をあえてつらぬいた、偉大な戦歴が浮かび上がるのだろうか。それとも、もはや時代遅れとなったはずの騎士道を担うものだと思いこんだ、愚かしくもおかしいドン・キホーテの奇行が浮かんでくるのだろうか。

 本書『スズキさんの休息と遍歴』ににおけるスズキさんの役割は、戦後日本版のドン・キホーテを演じることにある。かつて、学生時代を国家権力との抗争に明け暮れた全共闘世代でありながら、今では妻と息子のいる一家の大黒柱としてすっかり落ち着いてしまった、40歳のスズキさんは、はじめての有給休暇の朝に、かつての同志から送られてきた1冊の文庫本をきっかけに、息子のケンタをつれ、愛車2CVを駆って北へと向かう遍歴の旅をはじめる。その文庫本が、岩波少年文庫版の『ドン・キホーテ』であることからも明らかなように、20年前にたしかに持っていた闘争の精神の導くままに、世の中の不合理や不正を断固糾弾せずにはいられないスズキさんの道中は、しばしば脇道へとそれていくことになる。

 なにしろスズキさんにとっては、外国人労働者の賃金問題も、高速道路が有料なのも、子供にとって毒であるディズニーがはびこっているのも、ガードレールが設置されるのも、すべては国家の陰謀と結びつけられ、彼が闘うべき相手として退くわけにはいかなくなってしまうのである。その時代がかった、何かにつけて大袈裟なスズキさんのふるまいは、ちょうどドン・キホーテの奇行が、産業革命によって科学技術が急速に発展し、銃という火気が文字どおり騎士道を駆逐していった近代において、騎士の幻想を追いつづけることの愚かさを風刺するものであるのと同様に、全共闘世代の、国家への闘争そのものを劇画化したものだと言える。風車を巨人に見立てて突っ込んでいくのも、ガードレールを国家権力と見立てて蹴りつけるのも、すでにそうした気運の失われた時代の目から見れば、苦笑せずにはいられない、無意味な行為にしか映らないものである。

 だが、その苦笑が、たんなる時代錯誤の奇人に対する哀れみをこめた笑いであるのか、それともほんのちょっとばかりの羨望の混じったものであるのかによって、このスズキさんの担う「ドン・キホーテ」の意味するところが大きく異なってくる。

 そもそもドン・キホーテという言葉には、理想と現実の区別をつけることのできない誇大妄想狂という、あまりよろしくない意味が付加されている場合が圧倒的であるが、スズキさんに岩波少年文庫版『ドン・キホーテ』を送った芝庭克也は、かつて留置所でこの本を読み、「ドン・キホーテのどこが悪いのでしょうか」という返事を出している。その次につづく文章は、こうだ。

 反論はなかった。ないまま二十年たった。

 そう、ドン・キホーテは狂人だと周囲に笑われることはあっても、けっして悪人だと罵られ、人々に憎まれることのない人物なのだ。たとえ、その行為がいかに馬鹿げた、意味のないものであるとわかっていても、それでもなお自分の信じる道をひたすら前進前に進んでいく強い意志――小説家の笙野頼子は、価値観の多様化とともに、日本国民の共通の敵も、信じるべき信念も失われてしまった現代において、あえて敵をつくりだし、それと闘争する自分の姿を書いた本に『ドン・キホーテの「論争」』というタイトルをつけたが、それと似たようなところが、スズキさんという、日本でもっとも多い姓を持つ、誰でもない代わりに誰にでもなりえる人物にはある。

 著者である矢作俊彦にとって、あるいはドン・キホーテとは、かつては無限のエネルギーを与えてくれたにもかかわらず、いつのまにか無くしてしまった強い情熱の象徴だったのではないだろうか。本書の中でスズキさんはよく、「法律よりもマナーを守れ」と説く。それは警察に対しても、チンピラに対してもまったく変わらない。なぜ、守らなければならないのか、合理的な説明を重視し、それを説明できないことに憤る彼は、けっして社会秩序を乱す輩ではない。ただ、「そう決まっているから」というだけの理由で人を規制しようとする、自己判断を放棄してしまった人たちに、我慢がならないだけなのだ。

 そんな彼の信念がもっともよく表われているのが、本書の中にも頻繁に登場するイラストや、小説としては型破りなフォントや書体を駆使した文章だろう。著者は後に、「!」と「ん」をくっつけたような造語を使ったタイトルの本を出したりするが、本書の型破りな構成は、小説が同じフォントで、同じ書体で、しかも同じ行間で、規則正しく書かれなければならない、という、誰が決めたわけでもない、したがって誰も合理的に説明することのできない「暗黙のルール」に対する抗争だととらえるべきだろう。著者もまた、小説という世界における「ドン・キホーテ」たらんとしているのだ。それは同時に、失われてしまった自分の中の「ドン・キホーテ」を捜し求める旅でもある。

 日米安保について考えたとき、もともとは日本をふたたび軍事大国としないために制定されたものであるにもかかわらず、経済的復興により国際的な競争力をもつまでになった日本と、当時冷戦のまっただなかにいたアメリカの思惑によって、当初の解釈が次第に歪められていく実体が見えてくるわけだが、そうした歪みが生み出すさまざまな矛盾に、合理的説明を求めた闘った、全国のスズキさんたちは、どこで何をしているのだろうか。そして、戦後日本版『ドン・キホーテ』である本書は、そんな彼らに何をもたらそうとしているのだろうか。(2002.03.31)

ホームへ