【新潮社】
『向日葵の咲かない夏』

道尾秀介著 



 この世でもっとも怖い動物はと訊かれて「人間」と答えるという、ある種定番の受け答えが、もともとどこから出てきたものなのか、あるいは誰が語ったものなのかは知らないが、その根本にあるのが、人間の考えていることはすべて理解できるわけではない、という認識にあることは間違いないところだ。人は何よりわからないもの、理解できないものに対して、底知れぬ恐怖を覚える。逆に言えば、どんなに凶悪な怪獣も、どんなに怖ろしい病気も、その正体さえつかんでしまえば、それはもはや脅威ではなくなる、ということでもある。未知のものが既知のものになれば、それなりの対策はとれるし、心構えもできてくる。だが、自分たちに理解できないものというのは、理解できないがゆえに自分たちの無力さをまざまざと思い知らされる。よくテレビのワイドショーなどで、凶悪な殺人事件の犯人の動機についてことさら何か結論めいたものを出そうとするのも、その犯罪を引き起こした犯人の心境が視聴者には理解できず、それゆえに何でもいいから何らかの結論を出して、とにかく安心したいという欲求にテレビ局が忠実であるからに他ならない。

 理解できないものを理解できないまま、対峙しつづけるのはとても難しいし、生きていくうえでの大きなストレスにもなる。そういう意味で私たちが、自分以外の他人を怖れるという心境は、ごく当然のものだと言える。なぜなら、私たちはあくまで主観の生き物であって、他人が何を考えているのか、その真実をすべて見通すことなど不可能であるからだ。私たちにできるのは、あくまで自分自身の考えや経験から、他人もおそらくこうなのではないか、と想像することくらいである。でなければ、その存在自体を否定し、何もなかったことにしてしまうしかない。

 その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、僕は思った。
 それは、いつも僕の胸の中にある思いだった。
 この世界は、どこかおかしい。

 本書『向日葵の咲かない夏』に登場する語り手のミチオは小学四年生。学校は今日で終わりで、明日から夏休みになるというその日、彼は担任の岩村先生に頼まれて、欠席したSの家にプリントと宿題を届けに行ったのだが、呼び鈴を鳴らしても誰も出ず、人の気配もない。不審に思ったミチオが庭の窓から見たのは、部屋で首を吊って死んでいるSの姿だった。しかも、夜になって先生や警察が話してくれたところによると、彼らが駆けつけたときにはSの死体はなくなっていたという……。

 はたして、Sの死体を持ち去ったのは誰なのか。近頃町で起きている犬猫殺しの犯人と、何か関係があるのか。そしてSは本当に自殺だったのか? ミチオの一人称で物語が進んでいく本書の展開は、その冒頭こそSの死をめぐるミステリーの様相を呈してはいるが、その認識は死んだはずのSが蜘蛛となってミチオの前に現われ、しかも人間の言葉を使って自分が他ならぬ岩村先生に殺されたこと、そして持ち去られた自分の体を探してほしいと頼みこむにいたって急速に変化し、にわかにホラーめいた雰囲気を帯びるようになる。

 基本的に考えて、死んだSが蜘蛛になったり、人間の言葉を話したりすることなどありえないことだ。だが、本書がミチオの一人称で語られ、語り手がそのことに何の疑問も抱いていない以上、私たち読者もまたその事実をとりあえずは受け入れたうえで、本書を読み進めていくしかない。そして、このSの甦りという物語上のイベント、さらにはその蜘蛛になったSが、まるで探偵役であるかのように自分の身に起きた殺人事件を推理し、犯人を特定し、その根拠を論理的に構築していくという展開が、じつはひとつの大きな仕掛けとして機能していくことになる。

 ミチオをとりまく環境は、彼にとってけっして良いものとは言えない。とくに彼の母親との関係は、およそ親子というにはあまりにも異常なものとして映る。それは、ミチオに対する冷淡さと、その裏返しのようになされる妹のミカへの溺愛という形をとるものであるが、そのことについてミチオは、過去に何か決定的なこと、その親子関係が崩壊してしまうような出来事があったことをほのめかしはするものの、その詳細については物語の最後になるまであきらかにされることはない。ある種ネタばらしに近いものがあるのでここでは語らないが、ひとつだけたしかに言えることがあるとすれば、ミチオの母親は人間としてどこか歪んでしまっている、という点である。そしてその人としての歪みは、じつは本書の主要な登場人物全員に共通して与えられたものでもある。

 蜘蛛になったSが探偵、そしてミチオとミカが助手という、いかにも物語めいた展開のなかで、しかしその過程であきらかになってくるのは、そうした人間の闇の部分、けっして尋常とはいえない人間の醜く歪んだ一面である。そしてそれとともに、当初ミステリーとして動き出したはずの物語は、しだいに破綻を生じるようになる。

 僕にはわからなかった。誰が正しいのか。何が悪いことなのか。どれが嘘で、どれがほんとうなのか。――(中略)――僕は、ミカがうらやましかった。ミカは、いつでも純粋だ。何も疑ったりしない。

 本書全体を支配しているのは、どこか異常な――けっして普通とは言えない雰囲気である。Sの発言は二転三転するばかりか、ミチオに対して何か重大なことを隠しているふうであるし、また物語のなかに差しはさまれる三人称のパートで登場する、おそらくSの死にかんして重要な何かを目撃しているはずの老人、古瀬泰造もまた、何かを隠している。物語が進むにつれて、いろいろな新事実があきらかになり、そのぶん今回の事件がクリアにならなければならないはずなのに、何か決定的なものが隠されているがゆえに、物語自体が破綻し、ついにはSの存在自体が不要のものとして物語上から退場しなければならなくなるという、ある種の袋小路の構図は、その「隠されているもの」が見えてこないがゆえに、私たち読者には居心地の悪さ、ある意味でホラーめいた雰囲気を膨張させることになる。

 ミステリーに即した論理を追い、謎を解明していくという展開をとりながらも、そのなかにホラーとしての要素を織り交ぜ、その両方を満足させる、という意味で、本書は既存のトリックをまったく異なる用途で、じつに効果的に用いることに成功した怪作だと言える。なぜなら、本書が証明してみせたのは、人間がもちいる理詰めの考え、その論理性が、しばしば自身の現実感を喪失させ、私たちを思わぬ陥穽に誘い込むことがある、ということをこのうえなく指し示しているからに他ならない。それは、たとえば近藤文恵の『賢者はベンチで思索する』のなかでも示されていた、わからないことに対して無理やり理論武装することで、かえって真実から遠ざかってしまう、という程度のことではない。見たくない真実、認めたくない事実から目をそむけ、なかったことにしてしまうために、物語と論理でその事実を糊塗し、ひたすら虚構のなかで生きつづけるということだ。

 すべての隠されていたものがあきらかになったとき、読者はきっとその世界の歪みに戦慄することになるに違いない。現実をありのままにとらえることのできない人間の弱さと哀しさ、そしてそこからひたすらに歪められていく現実と虚構の挟間を彷徨っていくことの意味を、ぜひその身をもって思い知ってもらいたい。(2008.06.28)

ホームへ