【新潮社】
『春の道標』

黒井千次著 



 およそ、この世に男と女のニ種類の性があるかぎり、恋愛というものがけっしてすたれることのない、そしてもっとも謎と神秘に満ちたテーマであることに、異議のある人はおそらくいないだろう。なぜ、人は人を好きになるのか、なぜ人は、ある異性のすべてを知りたいと思い、そのすべてを独占したいという欲望に駆られるのか。生物学的な観点から見ればはなはだ不都合に思われる恋愛感情――だが、その感情があるからこそ、私たちは自分がまぎれもない一個の個性をそなえた、何者も自分の代わりになりえない存在であるという認識に到るのではないだろうか。

 本書『春の道標』は、そういう意味ではもっともリアルにひとりの男の恋愛感情をとらえた小説だと言うことができる。西窪高校に通う倉沢明史と、一歳年上で私立の女子高校に通う見砂慶子は、いわゆる幼なじみの間柄だった。後に慶子の家は都心に引っ越してしまうが、二人の仲は文通という形で続けられていた。だが、ちょっとしたきっかけが、二人の仲を幼なじみ以上の関係に引き上げてしまったとき、慶子の反応に大きな戸惑いを感じた明史は、あくまで友達でいたい、という手紙を慶子に送る。ところが、慶子からの返事はなかなか届かない。そして明史は次第に、いつ来るのかわからない慶子からの手紙よりも、近くのバス停へと続く道からやってくるひとりの女の子――染野棗のほうへと心が動かされていく……。

 気がついたときには幼なじみとして身近な存在となっていた慶子とは異なり、棗は明史にとってはまったくの他人どおしでしかない。だが、いったん火がついた恋心は、容易なことでは静まらない。明史はなんとか彼女と親しくなろうと、彼女の通う中学校まで後をつけたり、偶然知った苗字を頼りに彼女の家を探したり(今となってはストーカー行為と間違えられそうだ)、そしてどうにかして棗と親しくなればなったで、少しでも長く彼女といっしょにいたい、話をしていたいと願ったり、彼女の家庭教師である大学院生に嫉妬したり――そんな明史の、思わずこちらが照れてしまいそうな純愛ぶりを、何のてらいもなく、むしろ堂々と描ききっているのが非常に印象的である。

 ところで、本書の時代背景はけっこう古い。具体的に記述されているわけではないが、どうやら戦後から数年が経過した頃、敗戦の混乱がようやくおさまり、新しい社会を再構築していこうとする時代のようである。ひとりの少年が恋愛を通じて変化し、成長をとげていく様子を描いた小説――およそ現代では死語となりつつある「純愛」をテーマにした物語は、たしかにひと昔の時代設定によくマッチしてしていると言える。だが、あらゆる価値観が崩壊し、人々の心を閉塞感が支配し、まさに世紀末という言葉がふさわしい現代において、本書のような純愛や青春といったテーマが持つ意味は、どこにあるのだろうか。

 戦後五十年以上が経過した今、恋愛の価値観は大きく変化した。いや、それまでの男性中心の社会が築いてきた理想的な女性像――おしとやかでつつましく、知的で何より家庭を大切にする、という、男にとってはなんとも都合のいい理想像を、五十数年かけて壊してきたというのが適切なのかもしれない。山田詠美の小説を取り上げるまでもなく、セックスにおいても女性がむしろ主導権を握り、性の自由を謳歌する風潮は今も続いているし、一時期流行した不倫小説も、それまでの夫が中心となっていた家庭の限界を示すものであると言える。別に私はフェミニストを気取るわけではないが、その風潮は、敗戦によって一度社会が崩壊した時点から、すでにはじまっていたのではないだろうか。

 それを端的に示すのが、見砂慶子と染野棗というふたりの女性だ。慶子は一見知的でつつましやかな女性のように思われるが、文通においては巧みに嘘をまぎれこませて事実を歪曲させようというしたたかさも持ち合わせており、病気から回復してからは、明史ときちんとした距離を置くようになり、大学進学という目的も放棄してしまう。一方棗のほうは快活な少女という印象をもちながら、恋愛に関しては完全に受身であり、明史の強い願いを受けて彼と同じ高校を受けながら、けっきょく同じ受身な性格が明史の好意を無駄にする結果を導いてしまう。恋愛小説でありながら、けっきょく明史はふたりの女性にふりまわされた形になってしまうのである。現代の女性の変化の兆しは、この小説のなかにも見ることができるのだ。

 今は女性の言葉遣いも変化している。というより、もう男女の差――もちろん、身体的な特徴は変化するわけないのだが――そのものがずいぶん希薄になっているようにも思われる。人が人を好きになる、というその気持ちはけっしてなくなることはない。だが、それはこれまでの社会が押しつけてきた恋愛の形ではなく、もっとさまざまな形に分化していくことになるだろう。本書に書かれた「純愛」は、すでにさまざまな愛の形のひとつでしかありえなくなっているのだ。(1999.11.05)

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