【光文社】
『白昼の死角』

高木彬光著 



「M資金」という言葉がある。もともとは第二次世界大戦における日本の敗戦後、連合軍が旧日本軍から取り上げたという莫大な資産のことを指しており、連合軍はその一部を日本の戦後復興のため、きわめて低い金利で企業への融資にまわしていた、という、経済界における語り草のひとつにもなっているのだが、この「M資金」、公式にはその存在は確認されておらず、たんなる噂なのか、あるいは真実なのかは今もってはっきりとしていない。ただし、その存在をうかがわせるようなエピソードがじっさいの戦後日本では起こっており、それゆえに、この「M資金」という言葉はしばしば詐欺の手口と結びつくことにもなっている。

 私のような一小市民にとっては、たとえば徳川埋蔵金と同レベルの、なんとも突拍子もない噂でしかないのだが、日本を代表するような大企業の重役や巨万の富をもつ資産家たちが、しばしばこの「M資金」にまつわる詐欺の被害にあっているという。第三者の立場からすれば、そんないかにも胡散臭そうな話になぜコロッと騙されてしまうのか、と首をかしげることかもしれないが、詐欺の本質というのは、彼らがあつかうネタの信憑性とは基本的に無関係なものなのだ。その気になれは、すぐれた詐欺師はそれこそ徳川埋蔵金の話をネタに、大規模な詐欺をもやってのけてしまうに違いない。詐欺のもっとも重要な点は、詐欺のターゲットとなった人物に対していかに自分の話を信じ込ませてしまえるか――そのために彼らは、ありとあらゆる道具立てを用意し、舞台をととのえ、役者を仕込んでターゲットを知らないうちに自分の独壇場へと引っぱり込んでいくことに心血をそそぐ。そこにはあるいは、一種の洗脳テクニックもあるだろうし、たくみな話術もあるだろう。

 通常の精神であれば、どこかではたらくはずの疑念が、よりによって詐欺にあっているその時には起こってこない、というのは、詐欺にあった方なら多かれ少なかれ体験していることであろうが、それは詐欺師たちの手腕が、その人をそういう精神状態に陥れることに長けているからに他ならない。そういう意味で、詐欺師というのは手品師とよく似ていると言える。本書『白昼の死角』は、戦後まもない日本の経済界を舞台に、法律の盲点と死角をたくみについた金融詐欺をいくつもやりおおせたひとりの犯罪者を主人公にした、まぎれもない悪漢小説、犯罪小説であるが、そうした法律への挑戦を思わせるようなテーマもさることながら、読み進めていくうちに、その詐欺の手口が一種のマジックショーのような様相を呈してくることに読者は気づくことになる。

 驚くべき犯罪者には違いないが、犯罪もこれほどあざやかに、天才的になってくると、ふしぎなことには、人間を憎む気持がうすくなってくる。
 それはたとえば、河内山宗俊とか、アルセーヌ・ルパンとか、そういう作り出された悪人に、われわれが一種の魅力を感じるのと似たような心境かもしれなかった。

 昭和三十三年の夏、療養のため箱根の温泉宿に泊まっていた著者が、そこで偶然出会った鶴岡七郎という名の青年から、自身がこれまでの十年間でやってのけた犯罪の全容を聞かされる、という体裁で進められる本書であるが、当初この物語のなかで中心的人物として出てくるのは、鶴岡七郎当人ではなく、隅田光一という男である。同じ東大法学部でありながら、教授たちでさえ一目を置くほどの尋常でない才能をもつこの天才を中心に結成された、独自の鉄壁の金儲け理論を実践する「太陽クラブ」のなかで、七郎はあくまでその会員のひとり、という立場でしかなかった。

 後に鶴岡七郎のライバル役として、彼の前に何度も立ちふさがることになる敏腕検事の福永博正をして「日本犯罪史上、もっとも巧妙、もっとも悪質な知能的犯罪」と断じさせた詐欺行為を繰り返した鶴岡七郎――戦後直後の混乱した経済状況をたくみに利用し、雨後の筍のように経済界に台頭してきた高利貸し、闇金融、金融ブローカーといった違法な商売は、たしかに違法ではありながらも、同時に戦後日本の復興に多かれ少なかれ貢献してきた「必要悪」の部分があったことも事実である。七郎がはじめて詐欺行為に手を染めたのは、力を取り戻しつつある警察の闇金融の取り締まりで逮捕された光一を救うため、という抜き差しならない緊急事態ゆえのものであったのだが、この構図は、戦争という理不尽な行為によって踏みにじられ、虫の息だった戦後日本を事実上ささえていた闇金融という構図の縮小版としても成り立っている。

 たしかに、戦後日本が法治国家となった以上、法律に違反すれば罪に問われるのは当然のことではあるし、天才であるがゆえに自分の友人や恋人でさえ道具のようにしか思っておらず、ともすると自分に都合のいい部分しか見ようとしない隅田光一が逮捕されたのも、いわば自業自得なのだが、物語全体の構図として、鶴岡七郎の最初の詐欺行為を戦後日本の混乱した経済状況と結びつけたのは、非常に興味深い。なぜなら、法と経済を対比させ、大局的には「必要悪」であった経済犯罪をそれまでは見逃していたにもかかわらず、時期が来れば掌を返すように取締りを強化する警察の姿を描くことで、まるで法そのものが悪いものであるかのような印象ができあがってくるからである。その結果、徐々に知能犯としての側面を見せるようになる鶴岡七郎の悪意がどれだけ大きいものであったとしても、それは常に、より大きな力の代弁者である法そのものへの対抗手段として正当化されることになるのだ。

 戦中派インテリの代表ともいえる鶴岡七郎が、戦争という暴力に翻弄された結果、その破壊的エネルギーを知能犯罪の貫徹にぶつけることに生きる意義を見出していく――そういう本書の緻密な舞台設計のもとにおいてこそ、七郎の悪のカリスマ性は高められていく。それはたんに金儲けといった私利私欲ゆえの犯罪ではなく、ひとつの信念としての犯罪となり、それゆえに読者は彼の犯罪に惹かれていく。もちろん、「善意の第三者」といった専門用語や約束手形の取引など、法律や経済にかんする知識の豊富さが本書のリアリティを高め、犯罪そのものを良質のものとして完成させているのは事実であるが、それ以上に、本書そのものが、一種の詐欺の構造を踏襲しているという点こそが注目すべきところである。

 隅田光一の対比としての立ち位置にいる鶴岡七郎、法律という「巨悪」の対比としての立ち位置にいる鶴岡七郎――本書が見事なのは、彼をけっしてその立ち位置から転落させることなく、物語を終結させている点に尽きるのだ。

 詐欺にしろ交通事故にしろ、それは憎んでしかるべき犯罪であることに何の異議もない。だが、そこにおのれの全存在をかけた、信念にもとづく戦いを見いだしたとき、それはたとえば真保裕一の『奪取』を髣髴とされる爽快さがあるのも事実である。まるで大掛かりなマジックショーを見るかのような、そのあざやかで見事としかいいようのない知能犯罪の数々を、ぜひとも堪能してもらいたい。(2006.12.22)

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