【小学館】
『雷電本紀』

飯嶋和一著 



 人は本来自由な生き物ではあるが、自由であるということは、同時にその結果に対するすべての責任を背負わなければならないということと、常に対となっている。ひどく極端な例を挙げるなら、人を殺すのはその人の自由ではあるが、それは殺される相手が当然もっている「生きる」自由を容赦なく奪うということであり、一度その歪んだ自由を行使したなら、それはあらゆる人間が同じように自分を殺す自由を行使してかまわないと、世界じゅうに声高々に宣言したも同然だということでもある。そしてその境界線は、人の命というけっして取り戻すことのできないものを代償としているがゆえに、一度踏み越えてしまえばけっして元には戻らないし、また戻すこともできない。

 人であることそのものが自由であることとつながっているのであれば、自由とは、まず自分を律して生きるということでもある。人を殺すという自由を自分に許したが最後、自分はもう、まともな人として生きることは今後二度とできない――そういう思いをもって生きるということこそ、真の自由だと言うことができる。だが、誰もがそんなふうに自分を律して生きることができるほどの強さを持ち合わせているわけではない。私たちはともすると、楽なほうへと流されていきがちな心の弱さももっているし、良くも悪くもあらゆる環境に適応していくだけの柔軟さを備えてもいる。自由であること、自分を律して生きるというのは、けっして簡単なことではない。だからこそ、自身の生き方に妥協を許さない、本当の強さをもつ人間の生きざまは、多くの人の心を打つものである。

 今回紹介する本書『雷電本紀』は、江戸時代に実在した無双の相撲人、雷電為右衛門の生涯を描いたものであるが、こうした伝記小説によくある、自分たちと同じ人間としての雷電を描く、というのとは、少しばかり趣を異にしているところがある。化け物じみた巨体に、気の優しそうな馬ヅラ、だがいったん土俵にあがれば、その圧倒的な力で相手力士を叩き伏せ、軽々と投げ飛ばすという、それまでになく豪快で荒々しい相撲を見せ、弱い立場にある民衆から神のごとく慕われ、あがめられたというその人気ぶりはもとより、無名時代に祭礼相撲にやってきたプロの江戸力士を相手に五人抜きを果たしたり、はては浅間山の噴火を沈めた、死後もなおその巨体を見たという話が絶えなかったなど、なかば伝説めいた逸話の多い雷電は、ただでさえ人間というよりは、むしろ人を超えた何かとんでもない存在という要素がつきまとう人物ではある。本書の中心に雷電という相撲人がいるのは間違いのないところではあるのだが、そのテーマとしてスポットがあてられているのは、人間としての雷電というよりは、雷電が否応なくもつことになってしまった人並外れた、あまりにも大きな力という要素であり、またそうした力をもつがゆえにごく普通の人間として生きることを許されなかった、相撲の修羅としての道を突き進むしかなかった男の孤独だと言うことができる。

 どんなものであれ他と違っていては、必ずそれが生きていく上での障害となる。身体も、心も、知力も、並外れて優れていることは、この先それが己れの身を滅ぼすすべての元凶になりうる。あまりに並外れているために――(中略)――村の中にあっても表向きの賞賛とは裏腹に、嫉妬や蔭口で孤立する危惧を、親は感じているに違いなかった。

 あまりに大きな力というものは、ただそれだけで大きな責任を負うことになる。そこに当人の意思は、もとから問題とされることはない。力は力であって、誰がどんな思いで振るったとしても、力であることに変わりはないからだ。まるでそのことを象徴するかのように、本書では雷電本人の心のうちに、ことさら迫っていくような描写はない。それは、雷電を主体とする物語を書くというのではなく、あくまで距離を置いたうえで、雷電という人物の人となりを書き出していく、ということでもある。そして私たち読者はまず、相撲人としての雷電の、その鬼神のごとき強さをまのあたりにし、ただただ圧倒されるばかりであることに気づくことになる。

 当時の江戸の勧進大相撲が、京都や大坂のそれを凌いで一大隆盛をきわめるいっぽう、そうした力士たちを召し抱える各藩の役人たちが、番付や取組にいたるまで口をはさみ、相撲会所に圧力をかけるというのは日常茶飯事、力士たちのあいだにおいても、勝ち星の売買や貸し借りといった八百長試合が横行し、大相撲とは名ばかりの芝居見物的な雰囲気に飲まれつつあった。まさにその身ひとつで土俵に上がり、純粋に力と技とで相手とぶつかりあって勝負を決するはずの相撲の世界に、権力という不当な力が大きく介入しているという事実――そんななかにあって、そうした偽りの力など無力だとばかりに、何の妥協もなく、どんな相手であっても一心にその全力を振るって叩き潰してしまう雷電の相撲のスタイルが、それをまのあたりにする人々にどのような印象をいだかせるものなのか、という視点が、この作品の基礎にある。

 それは、既存の権力構造の上に立つ者たちに、そうした基盤を根こそぎ破壊されてしまうかもしれないという恐怖を与えるいっぽう、自然災害による凶作のうえに、悪政や悪徳商人たちの不当な買占め行為によってさらに苦しめられるばかりの名もなき民衆たちにとっては、抑圧されたものを吹き飛ばし、生きる希望さえ与えてくれるものとして映る。そしてそれは、いつしか私たち読者にも共有されていく視点でもある。つまり、私たちは人間としての雷電というよりは、雷電がもつその無双の力にこそ惹かれているのだと言える。

 たしかに雷電の力は、他の力士がもつ力とは、そのレベルが違うというべきものがある。文字どおり筋肉がきしみ、汗が飛び散る相撲の描写は緻密で迫力があるが、しかしながらどれだけ豪腕とはいっても、しょせんは生身の、たったひとりの男の力でしかない。では、雷電のあの強さは、二十年以上もの相撲人生のなかで、負けがわずかに十回という、前代未聞というべき記録を打ち立てたその強さは、いったいどこから来るものなのか、ということを考えたときに、彼がまだ上州の大石村の百姓でしかなかった頃に起きた大規模な一揆と、それを指揮するという形でしか自身のもつ才を生かすことのできなかった盛次――かつて雷電の父とともに、神社の奉納相撲で勝敗を争った大男のエピソードが、重要な意味を帯びてくることになる。

 本書にかぎらず、著者の作品には常に権力をもつ者、とくに、民衆に仕えるべき立場の役人でありながら、その権力を私欲のために使う者たちへの反発という一貫したテーマが流れているが、盛次がたどることになった末路は、ともすれば雷電自身がたどっていたかもしれないものでもある。そう、雷電のもつ最大の力とは、その巨体が繰り出す怪力でも、その下半身の粘り強い柔らかさでも、ましてや漢詩などの素養でもなく、好むと好まざるとに関係なく、多くの人の心を惹きつけずにはいられない力のことなのだ。そして雷電は、その力を私欲で振るうことを避けるためにこそ、無双の相撲人として修羅の道を突き進むしかなかった。

 けっして相撲が好きだというわけではなかった。だが、相撲界の頂点に立ち続けることで、自身のもつ力を正しく律することができるのであれば――そしてそのことで、多くの人の力になれるのであれば、自分のことはどうであれ、それでいい、という姿勢は、直接言葉にはされていないものの、雷電の言動を追っていけばおのずと見えてくるものである。そしてそのひたむきな相撲が、本書のもうひとりの主人公ともいうべき鉄物問屋の助五郎をはじめ、多くの人たちの生き方に少なからぬ影響を及ぼしていく。

 大きな力に溺れることなく、正しく自分を律していくという生き方を体現したのが、雷電という人物であり、そこに人々はまぎれもない人間としての理想を見る。それは、けっして楽な生き方ではないが、だからこそ彼の生涯は伝説で彩られていると言うことができる。はたしてあなたは、雷電という伝説的相撲人から何を受け取ることになるのだろうか。(2009.10.28)

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